万年山とは?

萬年山

名字 読み方
萬年山まねやま
名字辞典では、珍しい名字を中心に扱っているため、一般的な名字の読み方とは異なる場合がございます。

萬年山

読み方
萬年山まねやま

万年山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/27 10:19 UTC 版)

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万年山
標高 1,140.3 m
所在地 大分県玖珠郡玖珠町
位置 北緯33度13分41秒
東経131度07分59秒
座標: 北緯33度13分41秒 東経131度07分59秒
種類 メサ
万年山 (大分県)
プロジェクト 山
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万年山(はねやま)は、大分県日田市玖珠郡玖珠町九重町にまたがり、耶馬日田英彦山国定公園に含まれる標高1,140.3mのである。

概要

下万年と上万年に分かれる珍しい2段メサ(卓状台地)であり、九州百名山の一つとされるとともに、2007年には「玖珠二重メサ」として日本の地質百選に選定されている。メサが侵食されてできたビュートと呼ばれる地形の典型例である伐株山(標高685.5m)とともに玖珠町のシンボル的な存在である。

万年山周辺の地形図

大分百山にも選ばれており、山頂からは、南東に九重連山、東に由布岳、北に玖珠盆地が見渡せる。また、頂上付近は5月から6月にかけてミヤマキリシマが頂上一面に咲き、これを見るために他県からも登山者が訪れる。

豊後国風土記』によると、玖珠(くす)という地名は、かつてこの地にあった大きなに因むものであるという。そして、大楠の木陰となって日が当たらずに困った住民がこの大樹を切り倒した後の切株が伐株山であり、巨木が倒れる際にはね上げた土が山となったのが万年(はね)山であるという伝説がある。

近隣の景勝地

西から西北側の日田市、南から北東側で頂上を含む玖珠町、東から南東側の九重町ともに景勝地が多い。

北西側には国定公園に含まれる耶馬溪日田盆地、北北西30キロメートルの英彦山など、玖珠町には西椎屋の滝日本の滝百選)、角牟礼城跡など、南東側では九酔渓震動の滝龍門の滝九重"夢"大吊橋国立公園九重やまなみ牧場、東方20キロメートルに由布岳などがある。南方15キロメートルに九重連山、南方30キロメートルに阿蘇山

関連項目

外部リンク


相国寺

(万年山 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 18:33 UTC 版)

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相国寺

法堂(重要文化財)
所在地 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
位置 北緯35度1分59秒 東経135度45分44.45秒 / 北緯35.03306度 東経135.7623472度 / 35.03306; 135.7623472 (相国寺)座標: 北緯35度1分59秒 東経135度45分44.45秒 / 北緯35.03306度 東経135.7623472度 / 35.03306; 135.7623472 (相国寺)
山号 萬年山
宗派 臨済宗相国寺派
寺格 大本山
京都五山二位
本尊 釈迦如来
創建年 永徳2年(1382年
開山 夢窓疎石
開基 足利義満
正式名 萬年山 相国承天禅寺
札所等 神仏霊場巡拝の道 第99番
文化財 無学祖元墨蹟(国宝)
法堂・紙本墨画猿猴竹林図ほか(重要文化財)
公式HP 臨済宗相国寺派
法人番号 7130005001271
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法堂(側面)

相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号は萬年山(まんねんざん)。

足利将軍家伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文雪舟は相国寺の出身である。また、京都観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

歴史

永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。

義満は、禅の師であった春屋妙葩開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた[注釈 1]。空谷明応は3度住持を務め、伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)の火災で伽藍の大半が焼失した際も義満に乞われて住職に復帰して再建にあたっている。

相国寺は京都最大の禅宗寺院の1つとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。応永32年(1425年)にも再度全焼している。

また、義満によって応永6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。大正3年(1914年)の日立鉱山の煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。七重大塔は北山山荘(後の鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が義満没後の応永23年(1416年)に再び落雷で焼失、その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建された3代目の塔も文明2年(1470年)にまたもや落雷で焼失している[1][2]

応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。

薩摩藩戦死者墓

伽藍

庫裏
宣明

境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。

  • 法堂重要文化財) :「無畏堂」とも言い、慶長10年(1605年)、豊臣秀頼寄進によって再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。天井にあるの絵は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。
  • 開山塔(開山堂) :開山・夢窓疎石の像を祀るで、桃園天皇皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化4年(1807年)に下賜されたもの。
  • 方丈 :文化4年(1807年)の再建。
  • 庫裏 :文化4年(1807年)の再建。
  • 承天閣美術館 :相国寺と関連寺院(鹿苑寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、昭和59年(1984年)に開館した。
  • 宣明(浴室) :応永7年(1400年)頃の創建。現在のものは慶長4年(1596年)の再建。蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。(右の画像参照)
  • 鐘楼
  • 勅使門
  • 総門
  • 相国寺本山墓地:足利義政、藤原定家、伊藤若冲、長州藩士の墓がある。

塔頭寺院

かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。

山内塔頭

  • 大光明寺
  • 林光院 - 足利義嗣の菩提を弔うため、夢窓疎石を勧請開山として創建。元は二条西ノ京にあった紀貫之邸宅跡にあったが、移転を繰り返した後、豊臣秀吉の命により山内に移った。明治時代には荒廃しは医院となっていたが、大正8年(1919年)橋本獨山によって再興。建物は仁正寺藩藩邸を買い取り移築。南庭の鶯宿梅には、平安時代村上天皇の代に清涼殿の梅が枯れたので紀内侍(紀貫之娘)宅の梅を移植したが、「勅なればいともかしこし鶯の 宿はととはばいかがこたえん」という別れを惜しむ娘の和歌短冊が添えられ、これに心打たれた天皇は梅を返したという逸話が残る(『大鏡[注釈 2])。大正4(1915)年に境外墓所に「甲子役戊辰役薩藩戦死者墓」が建てられた。この墓は甲子役すなわち禁門の変(元治元(1864)年と戊辰戦争(特に鳥羽伏見の戦い)に関わって亡くなった方を弔ったものである[3]
  • 般若林
  • 玉龍院
  • 普広院
  • 慈雲院
  • 慈照院
  • 豊光寺 - 西笑承兌が豊臣秀吉追善のため創建。天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882年荻野独園が、慧林院とその子院霊香軒の客殿を移築し再興。
  • 長得院
  • 養源院
  • 光源院
  • 瑞春院 - 水上勉が幼い時に暮らし、小説『雁の寺』のモデルになった。
  • 大通院

山外塔頭

かつての山内塔頭

文化財

無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈語

承天閣美術館収蔵品については、同美術館の項を参照。以下には相国寺伝来品のみを掲げる。

国宝

重要文化財

  • 本堂(法堂)附 玄関廊
  • 紙本墨画猿猴竹林図 長谷川等伯筆 六曲屏風一双
  • 絹本著色十六羅漢像 陸信忠筆 16幅
  • 絹本著色鳴鶴図 文正筆 2幅
  • 絹本墨画淡彩 鳳凰図 林良筆
  • 紙本墨画 山水図 絶海中津の賛あり
  • 子元祖元高峰顕日問答語
  • 十牛頌(伝・絶海中津筆)10幅
  • 明主勅書 永楽五年五月二十五日とあり(1407年)
  • 異国通船朱印状 13通
  • 普広院指図

アクセス

鉄道
バス
  • 京都市営バス59・201・203系統「同志社前」下車2分。
自動車道

脚注

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注釈

  1. ^ 義満が春屋妙葩と義堂周信に寺院建立の意思を表明した際には自らが修行するための小規模な堂宇の建立を考えていたが、義堂は円覚寺や天龍寺に並ぶ寺院を建てるべきだと述べたと伝えられる(『空華日用工夫略集』永徳2年9月29日・10月3日条)。その経緯から義満は春屋妙葩の後任に義堂周信を考えていたが、彼が南禅寺の住職との兼務は難しいと答えたため、代わりに彼の推挙する空谷明応を住職にしたという[1]
  2. ^ 鶯宿梅の逸話については、菅原利晃「貫之の娘「鶯宿梅」歌説話小考 歌徳と教訓をめぐって (PDF) 」 『札幌国語研究』8号、道教育大学国語国文学会、2003年、 35-57頁。でまとめられている。

出典

  1. ^ a b 桃崎・山田, 原田正俊「相国寺の創建と足利義満の仏寺法会」
  2. ^ 桃崎・山田, 冨島義幸「相国寺七重塔とその伽藍」.
  3. ^ 「幕末動乱の京都と相国寺」笹部昌利 相国寺教化活動委員会 2010年,p96

参考文献

関連項目

外部リンク




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