律令国家の成立と貴族政治の展開とは? わかりやすく解説

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律令国家の成立と貴族政治の展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:58 UTC 版)

日本」の記事における「律令国家の成立と貴族政治の展開」の解説

朝鮮半島における覇権争い倭国国家体制変化させた。それまでヤマト王権は、同じ文化圏属していたツングース系中国人国家である百済新羅に対して度重なる出兵行い任那日本領を築くなど、朝鮮半島影響力持っていたが、663年百済復興のために援軍送った白村江の戦い新羅・唐の連合軍敗れて半島への影響力後退させるその後間もなくヤマト王権は「倭国」号に代わる日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して中国対等な外交関係結ぼうとする姿勢見せ中国中心とする冊封体制からの自立明確にした。これは、他の東アジア諸国異質な外交姿勢であり、その後日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本7世紀後半中国法体系社会制度急速に摂取し8世紀初頭古代国家律令国家としての完成見た。また『隋書』では、日本列島での古墳時代後期にあたる610年に隋が「流求国」に遠征して滅亡させたとされており、従来研究ではこれが琉球諸島存在していたことが定説となっていたが、その位置巡って意見別れている。 日本は、東アジア中でも独特の国際的な地位保持し続け7世紀中華王朝に対して独自の「天子」を称し8世紀には渤海朝貢国とした。後述する武家政権成立後も、13世紀元寇16世紀ヨーロッパアジア進出19世紀欧米列強進出など、様々な事態にも対応して独立維持していくこととなる。 成立当時の倭の支配地域は、日本列島全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗強かった東北地方全域平安時代後期に(延久蝦夷合戦領域組み込まれ倭人隼人蝦夷人が日本人となった。特に8、9世紀は、蝦夷征服活動活発化すると共に、関係が悪化した新羅への遠征計画されるなど、帝国としての対外志向強まった時期だが、10世紀入りこうした動き沈静化した。 9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力維持拡大図り武装するようになった。彼らはしばし各地紛争起こすようになり、政府制圧のために中下級の公家押領使追捕使任じて各地派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士家子郎党率いて戦を繰り返したが、やがて東日本中心に連合体である武士団へと成長した中でも中央貴族系譜を引く桓武平氏清和源氏は、軍事貴族である武家となって武士二分する勢力成長し政権巡って両者は相争った中央政治においては11世紀藤原北家皇族外戚として政権中枢を担う摂関政治成立した白河上皇治天の君として実権握って以降は、藤原北家直接血縁持たない天皇早く譲位し太上天皇上皇となって政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった文化面においては7世紀から9世紀にかけて唐を中心とする大陸文化摂取努めたが、10世紀頃から12世紀にかけては日本独特の文化創造されるようになり、国風文化が花開いた

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