律令国家の貨幣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
律令制においては、真綿、布、絁(あしぎぬ)、鍬、米、塩などが物品貨幣として用いられていた。当時は価値の尺度、支払い、交換などの機能別に貨幣があり、組み合わせて使用されていた。たとえば藤原京の市場でものを買うには、まず銀を尺度として品物の価値を計算してから、同じ価値を持つ糸や布で交換した。銀は対馬で発見されて国産化された。金は産出が少ない時代は朝鮮半島から輸入しており、平安時代に陸奥国で砂金が発見されて以降は東北からの砂金を使った。 律令政府は、首都の造営や兵役をはじめとする国家事業の支払い手段として、金属貨幣の普及をすすめた。支払いの内容は、雇用の賃金や資材の購入費とされる。和同開珎は平城京の造営、万年通宝は平城京の改築や保良宮の造営、神宮開宝は西大寺・西隆寺や由義宮の造営に対応して発行された。和同開珎の発行後は、中央の労賃は銭貨で、地方の労賃は刈り取った稲である穎稲で支払われた。 最古の国内鋳貨 日本の金属貨幣は、硬貨が作られる以前には質量や金属含有率で額面を決める秤量貨幣であったと考えられる。飛鳥寺の物資調達についての木簡には、秤量銀貨を用いた記録や、銭の単位である「文」の表記がある。持統天皇の時代には、貨幣を鋳造する機関である鋳銭司の長官が任命された。設けられた銭鋳司には、奈良時代の催鋳銭司、鋳銭寮、長門鋳銭司、岡田鋳銭司、登美鋳銭司、田原鋳銭司、平安時代の長門鋳銭使、周防鋳銭司、山城国葛野郡鋳銭所などがある。 国内での鋳造貨幣として現存する最古のものは、7世紀の銀貨の無文銀銭、次に銅貨の富本銭があり、富本銭が政府が発行した最古の貨幣とされる。富本銭の主成分は銅とアンチモンであり、のちの銅・鉛・錫を主成分とする銅貨とは異なる。飛鳥池工房には富本銭を鋳造した工房があり、ほかに釘などの鉄製品や銅製品が作られていた。鉄工房や銅工房で働いていたのは、帰化系の氏族である東漢氏を中心とする工人だったとされる。 無文銀銭や富本銭は、厭勝銭(まじない用の銭)であるか、それとも流通していたかについては論争が続いている。古代においては全く価値体系の違う物とも交換を可能にする貨幣に対して、異界(あの世)との仲立ちなども可能であるとする宗教的な意味を持たせることがあった。富本銭は流通目的ではなく厭勝銭目的であったとする学説や、三途の川の渡し賃として六文銭を冥銭として棺に入れたという慣習など、貨幣と宗教のつながりを想起させる話が多く残されている。
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