律令基本法典の形成(西晋時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 10:30 UTC 版)
「中国法制史」の記事における「律令基本法典の形成(西晋時代)」の解説
三国時代の魏の末期、晋王として実権を掌握した司馬昭は、律令が煩雑すぎるとして、新たな法典の編纂を命じた。司馬昭の子の司馬炎が晋を創設して武帝となり、268年(泰始4年)に『泰始律令』が公布された。 この『泰始律令』は律20篇620箇条、令40篇2306箇条からなり、故事30巻が付属していた。これまでの単行指令をファイルして便宜的に官庁の名称などを篇目としていたことを脱却し、令の篇目に、「戸令」「学令」「貢士令」「官品令」「吏員令」のように規定の内容を示し、篇目にふさわしい内容の条文を計画的に編纂した法典となっており画期的である。『泰始律令』の成立により、刑罰規定を「律」に、行政組織と執務規則を中心とする非刑罰規定を「令」の二本立ての基本法典からなる法形式が形成された。 八王の乱と遊牧民族の侵入の結果、晋(西晋)は黄河流域の華北を放棄し、317年、長江流域の江南に東晋を建てた。漢民族王朝は、南朝宋・斉・梁・陳からなる南朝へと継承されて行った。 南朝宋と斉は『泰始律令』を継承したが、南朝梁の武帝は503年(天監2年)に『梁律令』を発布した。南朝陳も『陳律令』を編纂したが、南朝は陳を最後に断絶する。南朝は貴族制社会のもとで文化面は大いに発展したが、華北奪回の夢を果たせず政治・軍事面では停滞し、法の発達にも乏しい時代であった。 放棄した華北では、5つの遊牧民族が建てた16以上の国家が興亡する、五胡十六国時代になる。439年鮮卑拓跋部の北魏が華北を統一して、北朝最後の王朝となった。遊牧民族と漢民族を融合した北朝では、商業・経済や宗教・文化の変化に応じた社会体制が法の発達を促した。北朝の法制度には、秦漢から南朝に承継された法制度を駆逐したというべき、新たな要素が盛り込まれた。 北魏での法典編纂は、398年(天興元年)に道武帝が下された律令の編纂命令に始まる。431年(神䴥4年)に太武帝が宰相の崔浩に編纂を命じた『神䴥律令』は、遊牧民族王朝で作られた最初の本格的な法典である。これが451年(正平元年)に改定されたとき、律は391箇条にのぼった。孝文帝は、刑罰の緩和と官員の不正に対する厳罰化を推進し、法の改定を繰り返した。481年(太和5年)には、律は832箇条という膨大なものとなっていた。 534年に北魏は東魏・西魏に分裂した。 西魏では、実権を握る宇文泰が法典の編纂を命じ、535年(大統元年)から544年(大統10年)にかけて律の改定が行われ、『大統式』と呼ばれるようになった。556年に西魏をついだ北周でも法典の編纂が進められた。第3代皇帝武帝の563年(保定3年)に『大律』が発布されたが、これは25篇1537箇条もの分量をもち、苛酷かつ細密であり、北斉の律に比して煩雑すぎると評される。577年(建徳6年)には、『大律』を補充するため、盗賊と官員の不正に対し死刑に処して取り締まる厳格な内容をもつ『刑書要制』が発布された。第4代皇帝宣帝は、皇帝の位を静帝に譲った後も実権を保ち、人々の歓心を買うため、579年(大象元年)に『刑書要制』を廃止して厳格な法を緩和した。しかし、翌年の580年(大象2年)には、さらに厳しい『刑経聖制』を定めた。楊堅が丞相となると、寛大な内容の新たな『刑書要制』が作られた。 西魏と北周では、北方防衛を担う軍事拠点である「鎮」出身の鮮卑族の将兵が多く政権に参加しており、治安維持と統制のため法の厳格化が必要であった。華北・江南の統一の方向が定まると、法も緩和の方向に向かった。
※この「律令基本法典の形成(西晋時代)」の解説は、「中国法制史」の解説の一部です。
「律令基本法典の形成(西晋時代)」を含む「中国法制史」の記事については、「中国法制史」の概要を参照ください。
- 律令基本法典の形成のページへのリンク