江南の統一
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至正15年(1355年)に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し至正16年(1356年)、集慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改めた。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から劉基、宋濂ら名望家がやって来るようになった。 その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の張士誠も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになった。至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。至正23年(1363年)3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを鄱陽湖の戦いと言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。 至正24年(1364年)、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。至正26年(1366年)に朱元璋は韓林児を応天府に呼び寄せたが、その途中で韓林児は水死した(朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる)。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。 至正28年(1368年)正月、応天府(現在の南京)にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を大明とした。 なお、当初は副都制も検討しており、開封を「北京」、故郷の鍾離を鳳陽府と改めて「中都」とする構想があった。しかし、北京設置の前提にあった北伐が早い進展を見せたことでその意義が失われ、洪武2年(1369年)9月から開始された中都の建設も洪武8年(1375年)4月に中断されたため、構想は事実上放棄されることになった。
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