江南の統一とは? わかりやすく解説

江南の統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 02:24 UTC 版)

朱元璋」の記事における「江南の統一」の解説

至正15年1355年)に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し至正16年1356年)、集慶路現在の南京)を占領し応天府改めた応天府占領した朱元璋長江下流一大勢力となった朱元璋名声大い高まり各地から劉基宋濂名望家やって来るようになったその頃長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒大漢国をうち立て湖北から江西一帯支配していた。また非紅巾勢力張士誠蘇州本拠大勢力を築いていた。朱元璋含めたこの3勢力当時中国で最も豊かであるといわれた江南覇権を争うことになった至正20年1360年)、陳友諒大軍率いて応天府目と鼻の先まで進軍し陣を敷いたその上で張士誠使者送り、共に朱元璋挟み撃ちにするよう促した応天府では投降首都放棄主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し部下偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾引きずり出し勝利することができた。至正23年1363年3月陳友諒前回敗北挽回すべく60号する大水軍を率いて南昌攻撃し7月朱元璋水軍率いて救援向かった。これを鄱陽湖の戦いと言う3日にわたる激戦の後、劉基献策した火薬用いた火計が当たり、漢の水軍殲滅成功し陳友諒自身戦死した翌年陳友諒の後を継いだ陳理降伏し大漢国を滅ぼした至正24年1364年)、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者江南覇権をかけて激突した朱元璋張士誠側の要地一つ一つ確実に落としていった。至正26年1366年)に朱元璋韓林児応天府呼び寄せたが、その途中で韓林児水死した朱元璋部下暗殺されたとも言われる)。これを機会朱元璋方針大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった至正27年1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠討ち淮南江南統一した至正28年1368年正月応天府現在の南京)にて朱元璋即位し元号洪武とし、国号大明とした。 なお、当初副都制検討しており、開封を「北京」、故郷鍾離鳳陽府改めて「中都」とする構想があった。しかし、北京設置前提にあった北伐早い進展見せたことでその意義失われ洪武2年1369年9月から開始され中都建設洪武8年1375年4月中断されたため、構想事実上放棄されることになった

※この「江南の統一」の解説は、「朱元璋」の解説の一部です。
「江南の統一」を含む「朱元璋」の記事については、「朱元璋」の概要を参照ください。

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