建武の新政とは? わかりやすく解説

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けんむ‐の‐しんせい【建武の新政】

読み方:けんむのしんせい

建武の中興


建武の新政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 16:35 UTC 版)

建武の新政(けんむのしんせい)は、1333年7月4日元弘3年/正慶2年5月22日)に、元弘の乱鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、7月17日(和暦6月5日)に「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した建武政権(けんむせいけん)の新政策(「新政」)。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。広義の南北朝時代には含まれるが、広義の室町時代には含まれない。新政の名は、翌年の元弘4年=建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。


注釈

  1. ^ もっとも、綸旨の発給自体が鎌倉幕府の滅亡による社会的混乱に対する一時的処方であり、新政権の機関の整備と並行して修正される性格(例えば、綸旨と共に雑訴決断所の施行牒を必要とすることで表面上は綸旨の効力が制約されるが、裏を返せば綸旨の施行手続が整備されて有効性が高まったとも言える)ものであったという説もある[1]
  2. ^ a b 『二条河原の落書』の成立時期について、古くは『建武記』古注の建武元年説がそのまま採用されていたが、森茂暁は、この落書が雑訴決断所の拡充や伝奏結番の内容を踏まえていること、『建武記』の建武3年に成立したと思われる当該箇所が「去年」と記していることから、建武2年のことだろうと指摘している[51]。詳細は二条河原の落書#成立年代
  3. ^ 厳密には、『足利官位記』原文では、足利高氏が鎮守府将軍になったのが「5月5日」(鎌倉幕府打倒前)と不可解な日付になっているが、これは「6月5日」の誤記であると考えられる[6]
  4. ^ 卿は本来正四位下相当官であり、従一位の位階を持つ彼らのような高位者が就くことはない。

出典

  1. ^ 亀田 2013.
  2. ^ 鈴鹿連胤 1845.
  3. ^ 『大日本史料』6編1冊6–7頁.
  4. ^ 『大日本史料』6編1冊80–86頁.
  5. ^ a b c d 『大日本史料』6編1冊170–181頁.
  6. ^ 森 2017, 第2章第2節.
  7. ^ 『大日本史料』6編1冊95頁.
  8. ^ 『大日本史料』6編1冊99–101頁.
  9. ^ a b 『大日本史料』6編1冊101–110頁.
  10. ^ 『大日本史料』6編1冊119頁.
  11. ^ a b c 『大日本史料』6編1冊141–142頁.
  12. ^ a b 長谷川 1996, p. 26.
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  14. ^ 『大日本史料』6編1冊195頁.
  15. ^ 『大日本史料』6編1冊238–242頁.
  16. ^ 『大日本史料』6編1冊249–251頁.
  17. ^ 『大日本史料』6編1冊327–329頁.
  18. ^ 『大日本史料』6編1冊329–333頁.
  19. ^ 『大日本史料』6編1冊392–393頁.
  20. ^ a b c d e f g 『大日本史料』6編1冊401–404頁.
  21. ^ 『大日本史料』6編1冊410–413頁.
  22. ^ 『大日本史料』6編1冊413–420頁.
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  24. ^ 『大日本史料』6編1冊481–484頁.
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  28. ^ 『大日本史料』6編1冊713–714頁.
  29. ^ 『大日本史料』6編1冊752–759頁.
  30. ^ a b 『大日本史料』6編2冊1–25頁.
  31. ^ 『大日本史料』6編2冊52–57頁.
  32. ^ 『大日本史料』6編1冊57–63頁.
  33. ^ 『大日本史料』6編1冊63–122頁.
  34. ^ 『大日本史料』6編2冊130–132頁.
  35. ^ 『大日本史料』6編2冊209–212頁.
  36. ^ 『大日本史料』6編2冊266–268頁.
  37. ^ 『大日本史料』6編2冊268–269頁.
  38. ^ 『大日本史料』6編2冊273–274頁.
  39. ^ 『大日本史料』6編2冊296–300頁.
  40. ^ 『大日本史料』6編2冊341–344頁.
  41. ^ 『大日本史料』6編2冊430–432頁.
  42. ^ 『大日本史料』6編2冊439–445頁.
  43. ^ 『大日本史料』6編2冊463–469頁.
  44. ^ a b 『大日本史料』6編2冊476–502頁.
  45. ^ 『大日本史料』6編2冊505–506頁.
  46. ^ 『大日本史料』6編2冊523–529頁.
  47. ^ a b 『大日本史料』6編2冊540頁.
  48. ^ 『大日本史料』6編2冊573–586頁.
  49. ^ 『大日本史料』6編2冊590–591頁.
  50. ^ 『大日本史料』6編2冊587–588頁.
  51. ^ 森 2012, 第3章第2節.
  52. ^ 『大日本史料』6編1冊766–770頁.
  53. ^ 『大日本史料』6編2冊609–612頁.
  54. ^ 『大日本史料』6編2冊634–635頁.
  55. ^ a b 『大日本史料』6編2冊651–654頁.
  56. ^ 『大日本史料』6編2冊684–688頁.
  57. ^ 『大日本史料』6編2冊693頁.
  58. ^ 『大日本史料』6編2冊695–704頁.
  59. ^ 『大日本史料』6編2冊705–713頁.
  60. ^ 『大日本史料』6編2冊723–728頁.
  61. ^ 『大日本史料』6編2冊738–748頁.
  62. ^ 『大日本史料』6編2冊749–756頁.
  63. ^ 『大日本史料』6編2冊758–761頁.
  64. ^ 『大日本史料』6編2冊772–802頁.
  65. ^ 『大日本史料』6編2冊825–836頁.
  66. ^ 『大日本史料』6編2冊956–969頁.
  67. ^ 『大日本史料』6編2冊970–977頁.
  68. ^ 『大日本史料』6編2冊978–984頁.
  69. ^ 『大日本史料』6編3冊16–42頁.
  70. ^ 『大日本史料』6編3冊44–45頁.
  71. ^ 『大日本史料』6編3冊46–49頁.
  72. ^ 『大日本史料』6編3冊63–65頁.
  73. ^ 『大日本史料』6編3冊73–82頁.
  74. ^ a b c d e 『大日本史料』6編3冊113–118頁.
  75. ^ 『大日本史料』6編3冊118–131頁.
  76. ^ 『大日本史料』6編3冊139–168頁.
  77. ^ 『大日本史料』6編3冊409–452頁.
  78. ^ 『大日本史料』6編3冊661–670頁.
  79. ^ 『大日本史料』6編3冊785–787頁.
  80. ^ 『大日本史料』6編3冊802–829頁.
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建武の新政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「建武の新政」の解説

詳細は「建武の新政」を参照 元弘3年6月5日1333年7月17日)に帰京 した後醍醐天皇は、「今の例は昔の新義なり、朕が新儀未来先例たるべし」(『梅松論』上)と宣言し、建武の新政を開始した。なお、建武の新政については、当時から現在に至るまで多様な評価・解釈があり、その特徴意義について一致した見解得られていない。したがって、以下、本節では事象列挙のみを行い後醍醐天皇政治思想やその意義・評価については「#評価同時代)」の節に譲る。 まず、自らの退位光厳天皇即位否定し光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに幕府摂関廃した両統迭立廃止して皇統大覚寺統一統した実子元弘の乱最初期から参戦した護良親王征夷大将軍とし(数か月後に解任)、足利高氏戦功第一とし自身の諱(本名)「尊治」からの偏諱尊氏」の名を与えて鎮守府将軍参議などに任じた同年中に記録所恩賞方雑訴決断所武者所頭人長官)は新田義貞)・窪所などの重要機関再興もしくは新設された。また、地方政権としては、親房の子北畠顕家東北北関東に(陸奥将軍府)、尊氏の弟足利直義鎌倉配置した鎌倉将軍府)。 翌年1334年)に入るとまず1月23日、父の後宇多天皇大覚寺統嫡流指定した甥の邦良親王血統ではなく実子恒良親王皇太子立てた同年1月29日1334年3月5日)、簒奪者王莽倒し後漢開いた光武帝元号建武(けんぶ)の故事により、元号建武(けんむ)に改元した。 同年中に検非違使庁による徳政令建武の徳政令発布5月3日)、恩賞方再編5月18日)、雑訴決断所拡充8月) などの政策が行われた。また、硬貨楮幣紙幣併用とする官銭乾坤通宝計画し中御門宣明鋳銭長官五条頼元鋳銭次官任じた10月後半から11月初頭護良親王失脚し足利直義預けられ鎌倉蟄居となった(『梅松論『保暦間記』大乗院日記目録』)。 建武2年1335年6月15日には造大内裏行事所が行われた。6月22日大納言西園寺公宗謀反発覚し武者所職員楠木正成高師直らに捕縛された。

※この「建武の新政」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「建武の新政」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。


建武の新政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)

足利尊氏」の記事における「建武の新政」の解説

詳細は「建武の新政」および「後醍醐天皇」を参照 鎌倉幕府の滅亡後、高氏後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙され鎮守府将軍左兵衛督に任ぜられ、また30箇所所領与えられた。元弘3年/正慶2年1333年8月5日には従三位昇叙武蔵守兼ねとともに天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏改名した尊氏建武政権では自らは要職には就かなかった一方足利家執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣多数政権送り込んでいる。これには、天皇尊氏敬遠したとする見方と、尊氏自身政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した元弘3年/正慶2年1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家鎮守府大将軍任じられ陸奥国駐屯することになると、尊氏も、成良親王上野太守に擁立して直義とともに鎌倉駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年1334年)には父の命令で逮捕され鎌倉直義預けられ幽閉の身となった

※この「建武の新政」の解説は、「足利尊氏」の解説の一部です。
「建武の新政」を含む「足利尊氏」の記事については、「足利尊氏」の概要を参照ください。


建武の新政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:25 UTC 版)

日本史の出来事一覧」の記事における「建武の新政」の解説

1333年元弘3年護良親王征夷大将軍となる。 1333年元弘3年記録所雑訴決断所武者所を置く。 1334年建武元年) 建武の新政。後醍醐天皇による親政1334年建武元年) 『二条河原の落書』が掲げられる1335年建武2年中先代の乱 1336年延元元年北朝 建武3年)) 建武の乱1336年延元元年北朝 建武3年)) 多々良浜の戦い 1336年延元元年北朝 建武3年)) 湊川の戦いで、楠木正成戦死

※この「建武の新政」の解説は、「日本史の出来事一覧」の解説の一部です。
「建武の新政」を含む「日本史の出来事一覧」の記事については、「日本史の出来事一覧」の概要を参照ください。

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