意義・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/23 08:47 UTC 版)
機関誌への投稿など残された文章から吉田の思想を判断すると、日本政府がアイヌに勧めている自己教育・貯蓄・禁酒・住宅の近代化などに同意し、良い「日本国民」、良い「社会人」となるのがアイヌの幸福であると考えているように見える。しかし同時に彼はアイヌが衰え滅びゆく民族であるという意見に反発していることを表す言葉も多く残している。『蝦夷の光』に投稿した「社会事業の対象としての蝦夷民族」というエッセイではアイヌの歴史を考察して、アイヌ民族のいわゆる「後進性」は松前藩の政策によって計画的につくられたものである、と強調した。近年の研究では、吉田はアイヌ史の再解釈を手がけた「ひとつの驚くべき例」としてあげられている。
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意義・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 07:13 UTC 版)
前述したとおり、本宣旨の意義をめぐってその評価は分かれている。 本宣旨を積極的に評価する立場には、佐藤進一・石母田正・石井進らがいる。佐藤は、本宣旨により頼朝は既存の国家権力である朝廷から公権(東国行政権 = 国衙在庁指揮権)を付与され、この公的権力との接触により一つの国家的存在、すなわち東国国家 = 鎌倉幕府が成立したとする。ここに、本宣旨が鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。 石母田は、幕府が大きな権限を得たことを認めている。 石井進は、本宣旨は頼朝に大きな行政権を与えたのであり、その実質上の効果は極めて大きかったとしている。 これに対し石井良助は、荘園公領を本主・国司へ返還させることが宣旨の主目的だったと唱えた。佐藤は、自身に利益のない宣旨を頼朝が施行するはずがないとして、石井良助の論に反駁した。 上横手雅敬は、一時的に東国を失った朝廷(公家政権)が本宣旨によって東国を回復したのであり、独立した権力を構築しつつあった東国政権は朝廷に併合され、その権力を大きく後退させたとし、本宣旨は朝廷による東国政権併合条約だったとみる。上横手は、本宣旨によって、東国政権 = 鎌倉幕府が朝廷へ軍事的奉仕するという体制が構築され、同じく朝廷に軍事的奉仕する義仲に優越するため、頼朝は源氏嫡宗の地位の公認を得ようとしていたのだとしている。 元木泰雄は、頼朝の実効支配地は南関東周辺のみであり、宣旨の効力はさほど発揮されなかったとする。頼朝が本宣旨で目的としたのは、東国支配権の確立よりも、義仲に優越して京武者や地域的軍事権力の担い手を組織化することだったとしている。 河内祥輔は東国独立論の存在を否定(平広常の個人的意見でしかないと)する立場から、頼朝の立場を平家政権の支配からの独立とそれに代わる朝廷との関係構築を求めて、一貫して後白河法皇との直接交渉を望んだ点を重視する。以仁王の令旨の文中に王自らの即位について触れているために、京都では以仁王の挙兵が後白河-高倉系統からの皇位簒奪のための謀叛行為と受け取られていることを知り、以仁王の令旨に代わる挙兵の正当性を朝廷に求め、同時に令旨を正当とみなしている義仲がいずれ朝廷と対立することを予想して、3カ条の回答で皇位継承を含めた現状の朝廷秩序を支持するとともに暗に義仲討伐の許可を求めたとする。 このように、本宣旨に関する評価は必ずしも一定しておらず、鎌倉幕府の成立史上における重要な画期とする一般的な理解に対しても、異論が唱えられている。 21世紀に入ってからは新たな視点からの議論が展開しつつある。 近藤成一は、従来の議論は国家権力が単一であることを前提としているが、その前提を捨てて、国家権力の並存・対立を視野に入れるならば、鎌倉幕府の成立は朝廷から権限を受権したか否かに必ずしも関係しないとした 本郷和人は、頼朝は本宣旨によって権限や優越的地位を得たのではなく、既に実力で獲得していたものに宣旨の追認を受けたのではないかとしている。
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