廃線へ
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南海電気鉄道は経営合理化対策として、 高度成長期以降の自動車激増により電車の定時運行が困難になってきたこと バスと併走する軌道線を排他することが画策されたこと 黒潮国体を機にした新たな都市計画の実施 営業成績の不振と乗降者の減少 等を理由として、同社和歌山軌道線の全線廃止を決断し、1971年(昭和46年)の1月に和歌浦口 - 海南駅前間、3月の残りの区間の2段階で全路線を廃止、同線は62年の歴史に幕を閉じた。周辺地域・自治体から大きな反対が起きなかった要因としては大部分を併走するバス路線でカバーできることと、国体の開催に向けた道路整備の優先を重んじたことが挙げられる。
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廃線へ
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金沢市内線廃止の議論が始まったのは1960年代に入ってからのことである。片町周辺の道路は1962年に幅員22メートルへと拡幅され、市内最初の歩道付き街路として整備されたが、この都市計画に関連して1961年8月に市内線撤去について金沢市に意見があった。これについて北陸鉄道では、償却費や撤去費がかさむこと、まだ年間2700万人の利用がありバスより電車の方が輸送原価が安いこと、バス転換しても道路の混雑は解消されないこと、といった点を挙げて撤去は適当でなない旨を表明する。ただし都市計画上の必要があれば、バス転換費用などの補償など会社希望の条件が満たされた場合には撤去に反対しない、という意向を加えていた。その後1965年6月に上記暴走事故が発生すると、地元紙北國新聞に市民の中に出ている市内線撤去の声に拍車をかけるであろう、会社はこの際事故防止の根本対策に関連して廃止問題を真剣に考えてはどうか、という旨の社説が出されている。 1965年、都市計画道路の拡張に伴い鳴和 - 東金沢駅前間0.8キロメートルの専用軌道敷が道路予定地となったため、金沢市から土地買収の要請が出された。そこで北陸鉄道では同区間のバス転換を決定、12月に廃止を申請し翌1966年(昭和41年)2月23日付で国からの廃止許可を得た。同区間は3月1日付で廃止され、バス転換された。 部分廃止決定後、社内最大の赤字線区で2年後には年間2億円以上の赤字を計上すると予想されるとして、北陸鉄道では市内線全廃の方針を打ち出し、1965年11月27日の株主総会を前にその方針を表明、次いで12月27日の取締役会にて全面廃止方針を決定した。翌1966年2月21日には、会社は市に対し市内線全廃・バス転換を正式に申し入れた。会社方針に対し金沢市議会では運輸対策特別委員会にて検討を重ね、6月15日交通緩和に廃止は必須という意見をまとめた。20日の市議会全員協議会もこれを承認し市長に答申する。その後8月15日に市と会社の間に全面撤去に関する協定書が交わされた。こうして市の同意を得たことで会社は10月から廃止手続を開始し、1966年12月19日付で国からの廃止許可を得るに至った。 廃止許可後、年末年始と重なる点を考慮して橋場町 - 鳴和間2.0キロメートルのみ12月26日付で廃止・バス転換した。残りの区間は翌1967年(昭和42年)2月11日付の廃止と決定され、2月1日からは花電車の運行を行った。最終運行日は2月10日で、路線を一巡した花電車6両が23時に車庫へと到着したのをもって運行を終了した。翌11日、電車代行バスが運行を開始。20日から電気関係、3月19日から線路関係の撤去工事が始まり、1968年(昭和43年)1月21日に撤去工事がすべて終了した。
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