幸手一色家とは? わかりやすく解説

幸手一色家(宮内一色家分家、関東一色氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:58 UTC 版)

一色氏」の記事における「幸手一色家(宮内一色家分家関東一色氏)」の解説

1319年元応元年) - 一色氏三河国幡頭郡一色より下総国田宮荘に入部する1399年応永6年) - 一色直兼田宮荘に入部する1554年天文23年) - 10月北条氏康古河公方足利晴氏攻め北条軍により田宮城および天神島砦が落城する。 1555年天文24年) - 一色直勝が北条氏康より田宮荘の本領安堵される。以降北条氏隷属する1590年天正18年) - 一色直朝と子の義直田宮城を退去し下総国大淵寺隠居する義直の弟であり取手市小文間城主であった政義は川崎上川崎)に隠棲渡辺改姓し土着する。小田原征伐が始まると、北条氏離れ豊臣秀吉方に臣従する。 1591年天正19年) - 12月関東入国した徳川家康一色義直御家人とし、武州幸手5160石を賜った義直現在の幸手市中1-6-13に陣屋幸手陣屋一色氏陣屋。現在は一色陣屋稲荷)を構えた1592年文禄元年) - 1月23日徳川家康葛飾郡幸手不動院浦和中尾玉林坊に年中行事職を安緒した。以降江戸幕府大身旗本となった1600年以前 - 一色義直隠居し嫡子の照直が家督領地相続した1601年慶長6年) - 一色照直は下総国相馬郡木野崎千葉県野田市木野崎)を領することとなり、一色氏幸手離れた同地千葉県野田市木野崎下町)に木野崎陣屋構えした。 1607年慶長12年) - 照直が死亡嗣子無かったため、義直再度当主となり領地相続した。のちに娘婿の子供の直氏を養子にした。 1639年寛永16年12月10日 - 直氏が将軍徳川家光御目見えし、領地相続した。ただし直氏は若年のため、実父旗本杉浦直為が「一色」に改姓し領地運営行った。照直が増やした分と義直隠居領没収されていた。 1616年元和2年) - 3月1日一色政義(渡部政義。義直弟。)が埼玉県久喜市鷲宮町上川崎渡辺家にて没した以降名主家として存続1698年元禄2年) - 一色直興が知行替え三河国設楽郡鳳来町(現・愛知県新城市長篠)を領したこの頃4500石。陣屋は旧・長篠城二の丸構え代官屋敷があった。三河国遠く遡れば、一色氏守護勤めていた国である。 1803年豊川(現・愛知県豊川市御津町赤根屋敷)に赤根陣屋構えた義直から直休までの墓所は、茨城県守谷市大円寺にある。 一色長兼 左京大夫 一色氏兼の次男 幸手田宮城代 一色直兼 宮内大輔 一色氏兼の三男 嫡男最初長兄一色満直八郎 幸手田宮城主 鎌倉公方家奉公衆 鎌倉住。 一色明 宮大輔八郎 旗本一色家系譜では一色長兼の養子とされるが、一色直兼養子説有り実父足利義嗣足利義満次男)。 一色時家 刑部少輔 一色長兼の嫡子 永享の乱の後、三河国豊川牛窪一色城築城応仁の乱では、同門吉良一色今川斯波等の西軍属して参戦一色蔵主 右衛門佐従五位下一色直明の長男 五代鎌倉公方足利成氏の命にて、鎌倉建長寺の僧から還俗鎌倉古河公方家奉行衆文官)。 一色乙丸 一色直明の次男嫡子永享の乱にて祖父一色直兼・父一色直明と共に武蔵国金沢称名寺にて、君主足利持氏自決の報を受け殉死一色清 宮大輔従五位下一色直明の三男 結城合戦では結城城籠城三年幽閉後、幕府御家人として九州下向後、鎌倉古河公方家奉公衆一色其阿 一色直明の四男 結城合戦では結城城籠城4代鎌倉公方足利持氏遺児(春王丸安王丸)が護送中、美濃金連寺で斬首。同寺の僧となる。 一色氏刑部少輔従五位下一色蔵主嫡子 古河公方家奉行衆古河城代(文官)。 一色直頼 宮内大輔 一色直清の嫡子 八郎 幸手田宮城主 古河公方家奉公衆武官)。 一色直朝 宮内大輔 一色直頼の嫡子 八郎 幸手田宮城主 古河公方家奉公衆武官)。後、後北条家家臣鎌倉移住足利義氏古河帰還の時、幸手帰還一色氏久 右衛門佐 一色氏義の嫡子 古河公方家奉行衆古河城代。後に足利氏姫の御連判筆頭文官)。墓は古河徳源院子孫喜連川家筆頭家老一色義直 宮内大輔 一色直朝嫡子 八郎 小田原成敗時には豊臣方密通徳川家康御家人となり、幸手5160石旗本となる。後に木野崎2000石で隠居一色義久 刑部少輔 一色氏久嫡子 喜連川足利家2代喜連川頼氏筆頭家老1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色照直 幸手領 5160石を相続後に、江州蒲郡領内2000石を拝領都合7160石の旗本となる。嫡子無で早死。父一色義直相続し外孫の直氏を養子養育一色崇刑部少輔 一色義久次男嫡子 喜連川足利家3代喜連川尊信筆頭家老金地院一色崇伝からの偏諱1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色崇五郎左衛門 一色義久三男 喜連川足利家4代喜連川昭氏家老首座金地院一色崇伝からの偏諱1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色直氏 一色義直養子外孫実父杉浦直為。直為は一色に改姓し直氏を養育旗本杉浦家は改易一色直房 4500石。1684年5月30日死去一色直興 三河転封1723年11月23日死去一色直賢 娘婿丹羽長守の子浦賀奉行1752年4月9日死去一色直国 1768年5月10日死去 一色直郷 1776年11月24日死去 一色直 一色直清 一色直休 3500石。丹後守甲府勤番支配小普請奉行長崎奉行1850年8月15日~翌1月1日)、勘定奉行1851年1月1日-1852年)を歴任した一色信茂(徳之一色城主:後年田中城

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