幸手一色家(宮内一色家分家、関東一色氏)
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1319年(元応元年) - 一色氏が三河国幡頭郡一色より下総国田宮荘に入部する。 1399年(応永6年) - 一色直兼が田宮荘に入部する。 1554年(天文23年) - 10月、北条氏康が古河公方足利晴氏を攻め、北条軍により田宮城および天神島砦が落城する。 1555年(天文24年) - 一色直勝が北条氏康より田宮荘の本領に安堵される。以降北条氏に隷属する。 1590年(天正18年) - 一色直朝と子の義直が田宮城を退去し、下総国大淵寺に隠居する。義直の弟であり取手市小文間城主であった政義は川崎(上川崎)に隠棲し渡辺と改姓し土着する。小田原征伐が始まると、北条氏を離れ豊臣秀吉方に臣従する。 1591年(天正19年) - 12月、関東に入国した徳川家康は一色義直を御家人とし、武州幸手5160石を賜った。義直は現在の幸手市中1-6-13に陣屋(幸手陣屋、一色氏陣屋。現在は一色陣屋稲荷)を構えた。 1592年(文禄元年) - 1月23日、徳川家康が葛飾郡幸手の不動院と浦和・中尾の玉林坊に年中行事職を安緒した。以降、江戸幕府の大身旗本となった。 1600年以前 - 一色義直、隠居し、嫡子の照直が家督と領地を相続した。 1601年(慶長6年) - 一色照直は下総国相馬郡木野崎(千葉県野田市木野崎)を領することとなり、一色氏は幸手を離れた。同地(千葉県野田市木野崎字下町)に木野崎陣屋を構えした。 1607年(慶長12年) - 照直が死亡。嗣子が無かったため、義直が再度当主となり領地相続した。のちに娘婿の子供の直氏を養子にした。 1639年(寛永16年)12月10日 - 直氏が将軍徳川家光に御目見えし、領地を相続した。ただし直氏は若年のため、実父で旗本の杉浦直為が「一色」に改姓して領地の運営を行った。照直が増やした分と義直の隠居領は没収されていた。 1616年(元和2年) - 3月1日、一色政義(渡部政義。義直弟。)が埼玉県久喜市鷲宮町上川崎の渡辺家にて没した。以降名主家として存続。 1698年(元禄2年) - 一色直興が知行替えで三河国設楽郡鳳来町(現・愛知県新城市長篠)を領した。この頃4500石。陣屋は旧・長篠城の二の丸に構え、代官屋敷があった。三河国は遠く遡れば、一色氏が守護を勤めていた国である。 1803年、豊川(現・愛知県豊川市御津町赤根字屋敷)に赤根陣屋を構えた。 義直から直休までの墓所は、茨城県守谷市の大円寺にある。 一色長兼 左京大夫 一色氏兼の次男 幸手田宮城代 一色直兼 宮内大輔 一色氏兼の三男 嫡男(最初は長兄の一色満直) 八郎 幸手田宮城主 鎌倉公方家奉公衆 鎌倉住。 一色直明 宮内大輔、八郎 旗本一色家の系譜では一色長兼の養子とされるが、一色直兼の養子説有り、実父は足利義嗣(足利義満の次男)。 一色時家 刑部少輔 一色長兼の嫡子 永享の乱の後、三河国豊川牛窪に一色城を築城。応仁の乱では、同門の吉良・一色・今川・斯波等の西軍に属して参戦。 一色蔵主 右衛門佐、従五位下。一色直明の長男 五代鎌倉公方足利成氏の命にて、鎌倉建長寺の僧から還俗。鎌倉~古河公方家奉行衆(文官)。 一色亀乙丸 一色直明の次男、嫡子。 永享の乱にて祖父一色直兼・父一色直明と共に、武蔵国金沢の称名寺にて、君主足利持氏の自決の報を受け殉死。 一色直清 宮内大輔、従五位下。一色直明の三男 結城合戦では結城城に籠城。三年の幽閉後、幕府御家人として九州に下向後、鎌倉~古河公方家奉公衆。 一色其阿 一色直明の四男 結城合戦では結城城に籠城。4代鎌倉公方足利持氏の遺児(春王丸・安王丸)が護送中、美濃金連寺で斬首。同寺の僧となる。 一色氏義 刑部少輔、従五位下。一色蔵主の嫡子 古河公方家奉行衆で古河城代(文官)。 一色直頼 宮内大輔 一色直清の嫡子 八郎 幸手田宮城主 古河公方家奉公衆(武官)。 一色直朝 宮内大輔 一色直頼の嫡子 八郎 幸手田宮城主 古河公方家奉公衆(武官)。後、後北条家家臣、鎌倉移住。足利義氏の古河帰還の時、幸手帰還。 一色氏久 右衛門佐 一色氏義の嫡子 古河公方家奉行衆で古河城代。後に足利氏姫の御連判集筆頭(文官)。墓は古河徳源院。子孫は喜連川家の筆頭家老。 一色義直 宮内大輔 一色直朝の嫡子 八郎 小田原成敗時には豊臣方に密通、徳川家康の御家人となり、幸手5160石旗本となる。後に木野崎2000石で隠居。 一色義久 刑部少輔 一色氏久の嫡子 喜連川足利家、2代喜連川頼氏の筆頭家老。1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色照直 幸手領 5160石を相続後に、江州蒲郡領内2000石を拝領。都合7160石の旗本となる。嫡子無で早死。父一色義直が相続して外孫の直氏を養子養育。 一色崇貞 刑部少輔 一色義久の次男・嫡子 喜連川足利家、3代喜連川尊信の筆頭家老。 金地院(一色)崇伝からの偏諱。1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色崇利 五郎左衛門 一色義久の三男 喜連川足利家、4代喜連川昭氏の家老首座。 金地院(一色)崇伝からの偏諱。1605年頃、古河より喜連川に入領。 一色直氏 一色義直の養子。外孫。実父は杉浦直為。直為は一色に改姓し直氏を養育。旗本杉浦家は改易。 一色直房 4500石。1684年5月30日死去。 一色直興 三河に転封。1723年11月23日死去。 一色直賢 娘婿。丹羽長守の子。浦賀奉行。1752年4月9日死去。 一色直国 1768年5月10日死去 一色直郷 1776年11月24日死去 一色敬直 一色直清 一色直休 3500石。丹後守。甲府勤番支配、小普請奉行、長崎奉行(1850年8月15日~翌1月1日)、勘定奉行(1851年1月1日-1852年)を歴任した。 一色信茂(徳之一色城主:後年の田中城)
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