山階宮測候所から気象庁の測候所へ
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「筑波山神社・筑波大学計算科学研究センター共同気象観測所」の記事における「山階宮測候所から気象庁の測候所へ」の解説
幕末から明治の初期にかけて、日本では近代的な気象観測設備が整えられたが、当時の欧米ではさらに進んで高層(山岳)や海洋での気象観測を行っており、欧米諸国に追い付くためにも早期の高層における気象観測の開始が求められていた。筑波山では気象庁の前身の中央気象台により、1893年(明治26年)冬に気象観測が初めて実施された。その後、ドイツで気象学を学んだ旧皇族の山階宮菊麿王は、帰国後も中央気象台を訪れるなど熱心に気象研究を続け、日本で山岳気象研究が遅れていることを憂い、1901年(明治34年)4月より自己資金で測候所庁舎の建設に着手、同年12月に完成、翌1902年(明治35年)1月1日から「山階宮筑波山測候所」として通年観測を始めた。これは日本初の山岳測候所となった。雲量・気圧・気温・降水量・地震・湿度・蒸発量・地下温度・日照時間・風向・風速などを計測できる機器を保有し、午前1回と午後3回(2・6・10時)の測定を行った。この年の気象観測の結果は"Ergebnisse der Meteorologischen Beobachtungen auf dem Tsukubasan im Jahre 1902"(ドイツ語、筑波山上氣象観測明治三十五年成蹟報告)にまとめられた。同書は観測所の概要を記した「叙説」、観測結果を綴った「氣象表」、「附錄」からなり、附錄には東京と筑波の重力加速度の測定結果が記載されていた。なお、この年の9月28日には足尾台風が襲来し、設置時には杞憂と思われた風速100m以上の風力台が威力を発揮し、正確なデータを測定することができた。長塚節は、知人に宛てた書簡に「此山頂に在りては百米以上の風速力に遭遇せるなり、其観測の苦辛思ふべし」と記し、測候所職員の苦労を推し量っている。 1908年(明治41年)に山階宮が逝去し、翌1909年(明治42年)に山階宮家が国に寄贈したことで「中央気象台附属筑波山測候所」となった。1928年(昭和3年)12月に山頂の観測所を改築し鉄筋コンクリートの現建物が完成、翌1929年(昭和4年)1月に当時の中央気象台長・岡田武松が視察に訪れた。この頃の測候所の業務は気象観測のほか、地震の観測、地域の気象と地質・動植物の関係を探る博物の調査であった。測候所の一角には、調査による採集品や気象関係の資料を集めた「陳列室」が設けられ、戦前に一般公開されていた。観測は1日6回に増やされた。第二次世界大戦中も休むことなく、およそ30人の職員が常駐して大日本帝国陸軍のために気象情報の収集を行った。 戦後は中継局の設置が相次ぎ、1957年(昭和32年)に水利水害対策用の無線、1967年(昭和42年)に東京国際空港(羽田)との気象レーダー用マイクロ回線、1974年(昭和49年)に東京都清瀬市の気象衛星センターとの間に気象衛星資料中継局が置かれた。1966年(昭和41年)に鉄塔2基が完成する。1969年(昭和44年)になると広域の自動観測ができるようになったことから、夜間に無人化され、1976年(昭和51年)4月にアメダスに切り替えられ完全無人化された。さらにリモートセンシングを用いた観測技術向上により、2001年(平成13年)12月、気象庁は「筑波山地域気象観測所」を閉鎖した。2002年(平成14年)から筑波大学が引き継ぐまでの4年間は観測が行われず、建物だけが現地に残される形となっていた。
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