山崎の戦いと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)
詳細は「山崎の戦い」を参照 光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日)までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。 同年6月7日には誠仁親王は、吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。 だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている。 また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし、筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。 本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。 決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。 当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている。また他には、秀吉側3万5千人に対し、各城にも兵を残したため実数1万人程度で劣勢であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千人が包囲され敗走し、早くも戦いの帰趨が決まった、との見解もある。 同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したともされる。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする。その際、最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。 光秀のものとされる首は、発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる(『兼見卿記』)。安土城で留守を守っていた明智秀満は、同年14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが、多くが逃亡。やがて坂本城が包囲され、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍に渡した(『川角太閤記』)。籠城戦も無理だと判断して、光秀の妻子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害した。
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