山崎の戦いにおける光秀と五宿老
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「明智五宿老」の記事における「山崎の戦いにおける光秀と五宿老」の解説
6月13日(7月2日)、光秀は斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝と共に、備中高松城の戦いからの中国大返しで駆け付けた羽柴秀吉を天王山の麓の山崎で迎え撃つ。だが山崎の戦いに敗れて、光秀は溝尾茂朝と勝龍寺城に帰城するも秀吉軍の追撃を受け城を放棄し坂本城へ落ち延びようする。しかし、光秀が落ち武者狩りの百姓によって致命傷を負わされる。明智光秀は自害し、溝尾茂朝が介錯を務めた。溝尾茂朝は首を竹藪に隠すと坂本城へ。明智秀満は安土城で、明智光忠は知恩院で光秀の敗戦を知る。 6月14日(7月3日)、明智秀満、明智光忠は坂本城へ。明智秀満は、光秀が集めた財宝が失われるのを惜しみ、目録を添えて包囲軍の堀直政に渡した。その後、光秀の妻子と自分の妻子を刺殺し城に火を放ち、明智光忠、溝尾茂朝と共に自刃した。藤田行政は負傷して淀まで敗走していたが、勝龍寺城陥落を聞き自刃した。 斎藤利三は、敗走していたが近江堅田で捕まり、6月17日(7月6日)、六条河原で斬首された。
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