安政大獄とは? わかりやすく解説

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あんせい‐の‐たいごく【安政の大獄】

読み方:あんせいのたいごく

安政5〜6年(1858〜1859)に、大老井伊直弼が行った尊攘(そんじょう)派への弾圧安政の仮条約や、家茂(いえもち)を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿大名志士ら百余名処罰し吉田松陰橋本左内ら8名を死刑とした。→桜田門外の変


安政の大獄

(安政大獄 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 03:39 UTC 版)

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧[1]。当時は「飯泉喜内初筆一件」または「戊午の大獄(つちのえうまのたいごく、ぼごのたいごく)」とも呼ばれていた[2]


注釈

  1. ^ 全体では吉田松陰が最後の刑死者となる。
  2. ^ 徳川四天王を祖に持ち、家康時代以来の家として、譜代大名筆頭を自他共に認めていた井伊家の減封は、聖域に手を入れるに等しい大処断である。直弼のもとで、安政の大獄で活躍した彦根藩士の長野主膳宇津木景福は藩主井伊直憲の命令で処刑された。
  3. ^ 譜代筆頭の井伊家と親藩筆頭越前松平家福井藩)の間には、江戸時代を通して家格や席次を巡る因縁があり、また両者は領地替えを画策された因縁があった。
  4. ^ 当時の五手掛を含む幕閣など。文久2年(1862年)度中期から後半に一斉に処分されている。大獄の当時の老中の間部詮勝は隠居謹慎と1万石減封、大獄の当時の京都所司代酒井忠義は隠居謹慎、大獄の当時の寺社奉行松平宗秀は酒井の後任の京都所司代となるも朝廷の圧力により赴任できないまま罷免および溜詰格に昇進していた家格の剥奪、江戸北町奉行石谷穆清は公職罷免および隠居謹慎。勘定奉行池田頼方寄合肝煎だったが、桜田門外の変に際して大老直弼の死を隠蔽した罪により肝煎を罷免され寄合になった。大目付久貝正典は2000石減封の上、免職隠居となった。京都町奉行小笠原長常は文久2年(1862年)時点では江戸北町奉行と政事改革御用掛を兼任する重用ぶりであったが、書院番頭に左遷された上で免職および隠居処分となった。
  5. ^ a b c d e 幕府の処分案で示されるも、孝明天皇により却下された。
  6. ^ 東坊城は、幕府の示した当初案では名は挙げられなかった。が、彼がかつて武家伝奏として、幕府寄りの立場で関白九条尚忠に同調した過去を追及した孝明天皇の強い意向により、永蟄居を命じられた。

出典

  1. ^ 安政の大獄』 - コトバンク
  2. ^ 戊午の大獄』 - コトバンク
  3. ^ 安政の大獄』 - ジャパンナレッジ
  4. ^ 松平春嶽「逸事史補」(松平春嶽全集編集刊行会『松平春嶽全集(1)』原書房、1973年)
  5. ^ 刑部芳則『公家たちの幕末維新』中央公論新社、2018年、56頁。 


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