学歴・教歴
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「アンナ=テレサ・ティミエニエツカ」の記事における「学歴・教歴」の解説
アンナ=テレサ・ティミエニエツカはポーランド系フランス人貴族階級の家に生まれた。哲学を知ったきっかけは、ルヴフ=ワルシャワ学派の創始者カジミェシュ・トヴァルドフスキの代表作『表象の内容と対象について(Zur Lehre vom Inhalt und Gegenstand der Vorstellungen)』のほか、プラトンやベルクソンの著作を若くして読んだことであった。プラトンとベルクソンの哲学については、母のマリア=ルドヴィカ・ド・ランヴァル・ティミエニエツカから手ほどきをうけた。 第二次世界大戦の終戦後、クラクフのヤギェウォ大学にて、ローマン・インガルデンの指導のもとで哲学を体系的に勉強し始めた。インガルデンは、カジミェシュ・トヴァルドフスキやエトムント・フッサールの弟子である。同時に、ティミエニエツカはクラクフ美術アカデミーにも通った。 わずか2年で大学の正規課程をすべて修了した後、スイスのフリブール大学に進学し、著名なポーランド人哲学者・論理学者のヨゼフ・マリア・ボヘンスキーのもとで研究を続けた。博士論文のテーマは、ニコライ・ハルトマンとローマン・インガルデンの哲学における現象学的基盤を解明することであり、のちに『本質と実存(Essence and Existence)』(1957年)というタイトルで出版された。二つ目の博士号はフランス哲学・文学に関するもので、1951年にソルボンヌ大学で取得した。 1952年から1953年にかけて、ベルギーのブルッヘにある欧州大学院大学で社会科学・政治学のポスドク研究を行った。このときから、ティミエニエツカは完全にフッサール的でもインガルデン的でもない、独自の現象学的態度を備えた哲学を構築し始めた。 1956年、ヘンドリック・ハウタッカーと結婚した。ハウタッカーは、スタンフォード大学経済学教授(1954-1960年)、ハーバード大学経済学教授(1960年から)、ニクソン大統領経済諮問委員会メンバー(1969-1971年)を務めた人物である。 1979年、前年にヨハネ・パウロ2世としてローマ教皇に就任していたカロル・ヴォイティワと協働し、ヴォイティワの著作『人格と行為(Osoba i czyn)』の英訳を行った。『人格と行為』は、ヴォイティワの最初期の作品の一つであり、もともとポーランド語で執筆され、その後フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、英語、その他の言語に翻訳された。しかし、ティミエニエツカの英訳は強い批判を浴びることになった。批判者によれば、ティミエニエツカは「ポーランド語で書かれた原著を改変し、専門用語を混乱させ、テクストを訳者自身の哲学的関心に合わせてねじ曲げた」という。ヨハネ・パウロ2世も、この翻訳には納得しなかったと言われている。さらに、英訳はポーランド語で書かれた原著より早く出版されており、著者が望んだ最終稿ではなく、古い原稿が翻訳の底本に使われていた。批判者の示唆するところによれば、ティミエニエツカがつけた英語版タイトルの『The Acting Person』がすでに問題含みである。というのも、原著のタイトルは、主観的意識(人格)と客観的現実(行為)間の緊張関係という、同書と著者が意図していたメッセージの中核を伝えるために採用されたものだからである。多くの反対者に抗して、ティミエニエツカは2001年に自分の手がけた翻訳こそが『人格と行為』の英訳「決定版」だと主張した。 ティミエニエツカはオレゴン州立大学数学助教授(1955-1956年)、ペンシルベニア州立大学助教授(1957年から)を務めたほか、1961年から1966年までラドクリフ大学独立研究所に所属し、1972年から1973年までニューヨークのセント・ジョーンズ大学哲学教授を務めた。
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学歴・教歴
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メアリ・デイリーは1928年10月16日、ニューヨーク州スケネクタディに生まれた。カトリックの教育を受け、1950年にカレッジ・オブ・セント・ローズ(英語版)(ニューヨーク州オールバニ)で英語とラテン語を専攻し、学士号を取得。1952年にアメリカ・カトリック大学(英語版)(ワシントンD.C.)で英語を専攻し、修士号を取得した。1954年にセント・メアリーズ・カレッジ(インディアナ州ノートルダム)で哲学の博士号を取得した後、1954年から59年までカーディナル・クッシング・カレッジ(英語版)(マサチューセッツ州ブルックライン)で哲学と神学の講義を担当した。さらに、スイスのフリブール大学に学び、1963年に神学の博士号、1965年に哲学の博士号を取得した。カトリック神学の牙城であるフリブール大学の神学部では女子学生は極めてまれで、デイリーは異端視された。1959年から66年にかけて、引き続きフリブール大学で、米国の大学学部3年次を対象とした短期留学プログラム「ジュニア・イヤー・アブロード・プログラム」の受入学生に哲学と神学を教えた。1966年にイエズス会によって1863年にリベラル・アーツ・カレッジとして創設され、現在もイエズス会が運営するボストン・カレッジの神学部に助教授として就任した。
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