大貴族と軍隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)
主な地域と都市 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} ロンドン ヨーク サウザンプトン シュルーズベリー ブリストル ノーサンバランド ヨークシャー ランカシャー ノーフォーク ミッドランド エセックス ケント サマセット コーンウォール ウェールズ スコットランド王国 太文字 –地域 –都市 15世紀のイングランドは神授権を主張し、民衆からは神に指示され導かれる「聖別された君侯」と信じられていた国王に統治されていた。王権の主なる機能は敵から民衆を守ること、公正に統治すること、そして法を維持執行することであった。このような社会での主権者の性格は自らの安全確保と臣下の安寧に依拠するがために肝要であった。統治と君臨によって国王は強大な権力を振るうが、300万人の国民を擁する政府の複雑性は政府機関の数が増すとともに臣下への権限の委任の増加を導いた。 王位継承法は明確なものではなかったが、一般的には年長の子とその相続人に継承させる長男子相続権の規則が適用されていた。12世紀の女君主マティルダの短い治世から、1399年のリチャード2世の廃位までの時期はプランタジネット朝には多数の男系継承者が存在していたためにこの長男子相続権でも問題が生じなかった。しかし、1399年から15世紀の末には、法学者ジョン・フォーテスキューの1460年代の著作が言うところの、「強大化しすぎた臣下」の台頭により、王位は抗争の的となった。この時代は王位請求者、もしくはその黒幕とならんとの野心を持つ、強大な大貴族があまりにも多くいた。この結果、新たなそして不穏な要素が王位継承の決定に加わることになり、権力に対する恣意の横行となった。 国土の防衛はとりわけ重要であり、イングランド国民の多くが軍事的成功に重きを置いていた。それ故に国王は有能な戦士と見なされねばならなかった。薔薇戦争の名で知られる一連の内戦の決定的な要因は、国王自身は常備軍を有していなかったことである。国王は必要な際に自らを守る兵の動員を貴族たちに依存しており、そのため、もしも刺激させればその兵力を国王に向けかねない、貴族やジェントリ(郷紳)との関係を良好に保つことが不可欠であった。このことは国王が、大貴族間の権力闘争(とりわけ、王国の安定を脅かしかねないもの)を抑止する責務にもつながっている。 薔薇戦争は主に大土地所有(英語版)の大貴族の間で行われた。彼らは王族たる公爵、比較的少数の侯爵や伯爵、多数の男爵と騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持つ一方で、投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって政治的影響力を拡大していた。彼らは封建的な扈従(こじゅう)(retainerまたはtenants)からなる武力によって支えられており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。雇用された多数の兵士を統制する行為は「幇助」(maintenance)として知られる。このような私兵の規模のほかに、貴族の威信は「扈従団」(affinity:アフィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ」(livery:そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍する。その見返りとして、貴族は年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を与えた。この非公式な「お仕着せと幇助」(livery and maintenance)の制度は百年戦争に続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度本来の土地の授受を媒介とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、「仕着せされた扈従」(liveried retainer)として貴族と請負契約を結ぶ、歴史家の言うところの、「疑似封建制」(bastard feudalism)の一環であった。薔薇戦争の時期には、フランスでの戦いに敗れイングランド軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き、原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)。 前世紀の戦争の経験から、弓兵に対する騎兵突撃が極めて危険なことが分かり、騎兵(装甲兵)たちはほとんどの場合、徒歩で戦った。しかしこれはしばしば言われるが、貴族の方が兵士よりも危険が大きかった。ブルゴーニュ人の観察者フィリップ・ド・コミュンヌ(英語版)は、エドワード4世が戦場で勝利を決した際に「兵士は逃がしてやれ、だが貴族は容赦するな」と命じていたと伝えている。
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