大相撲・現役時代
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小学生の頃から相撲が好きで、中学2年の時に実父に相撲界への入門を志願したが断わられた。しかしどうしても入門したい理由から、「ここで許されないなら他の部屋に入る!」と切り出した為、父親も折れて入門を許し、1967年(昭和42年)1月場所、瑞竜の四股名で初土俵。北の湖と同期だった。ちなみに日大一中・一高では水泳部(競泳)に所属し、インターハイ出場の経験もあった。 三段目にいた1968年(昭和43年)5月場所から父の四股名である増位山を継ぎ、1969年(昭和44年)7月場所新十両と2年余りで関取の座を掴む。1970年(昭和45年)3月場所に入幕したが負傷で何度か往復した。その後上位に進んでは大負けして落ちる繰り返しだったが徐々に三役に定着し5度目の三役昇進となった1979年(昭和54年)9月場所(小結)から相撲ぶりが目立って良くなり、翌11月場所関脇で11勝4敗と三役で初の二桁勝利を達成し、2場所連続で三賞(技能賞)を獲得。 そして翌1980年(昭和55年)1月場所、初日に横綱・輪島を破るなどで、関脇の地位で連続二桁勝利の12勝3敗をあげる。この3場所合計31勝で、直近の大関昇進の事例と比較すると勝星数で劣るものの、当時大関は貴ノ花1人しか居なかった番付上の状況もあり、場所後に大関昇進が決まる。本人曰く「最初で最後の大関獲り」のワンチャンスを見事ものにして、年6場所制が定着した1958年(昭和33年)1月場所以降初土俵の力士では、旭國の28歳11ヶ月を上回る31歳2ヶ月の当時最年長(現在では琴光喜の31歳3ヵ月に次ぐ2番目)で、史上初の親子大関が実現した。 しかし新大関の1980年3月場所は、右ヒジ関節挫傷による怪我で途中休場。場所後に昇進披露宴が行われ、相撲関係者のみならず俳優・歌手など 1500人余りが出席する豪華さと昇進場所での不振ぶりから「一億円の角番披露」と揶揄されるなど話題となった。いきなり大関角番となった翌5月場所は、8勝7敗と勝ち越して角番脱出。その後も2場所連続の9勝6敗と1桁勝ち星がやっとで、1980年11月場所は3勝12敗と大きく負け越した。2度目の角番となった1981年(昭和56年)1月場所は、10勝5敗と増位山自身大関として唯一の二桁勝利を挙げたが、これが大関としての最高成績だった。 1981年3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化を理由に、同3月場所5日目限りで現役引退を表明した(取組相手の予定だった隆の里は不戦勝となる)。大関在位は僅か7場所で、「短命大関」としては年6場所制以降、大受の5場所(関脇陥落)に次ぎ、栃ノ心、朝乃山と並ぶ史上2位タイである(大関の地位で引退した力士では歴代1位となる)。現役引退後は18代小野川を襲名するとともに、三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。 取り口はふわっとした立合いで相手の突進をそらし、右で廻しをつかむと投げや内掛け・外掛け・内無双と多彩な技を繰り出した。中でも相手を引きずるように打つ上手投げ・上手出し投げは増位山独特のものだった。 23〜50歳くらいまでは1日に150本くらい吸うヘビースモーカーだったのが病気をしてから一切吸えなくなった。
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