大ロシア合奏団
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「ロシア民族楽器オーケストラ」の記事における「大ロシア合奏団」の解説
19世紀末、ロシアの首都サンクトペテルブルクにはイタリア・オペラをはじめとした西ヨーロッパ諸国の音楽とともにさまざまな楽器が入ってきていた。こうした音楽的風潮に対し、「わがロシアの楽器のみによるオリジナルのオーケストラ」を思い立ったのがワシーリー・アンドレーエフである。アンドレーエフは、バラライカやドムラの音楽的可能性を引き上げるため、構造的な改良を施すとともに、奏法も工夫・考案した。「大ロシア合奏団」設立当初はバラライカ群とドムラ群を組み合わせ、2種類のグースリを取り入れた22人編成であったが、その後音域に合わせて開発した4種類のグドークも加わった。 「大ロシア合奏団」を率いたアンドレーエフは、ツァーリ政府の妨害を受けながらもロシア国内を演奏旅行し、作家のマクシム・ゴーリキー、画家のイリヤ・レーピン、声楽家のフョードル・シャリアピンらが彼のオーケストラを支持した。シャリアピンは、アンドレーエフのコンサートに出演してロシア民謡を歌った。 1908年から1911年にかけて、「大ロシア合奏団」はドイツ、イギリス、フランス、アメリカを演奏旅行し、成功を収めた。この結果、各地でロシア・バラライカ演奏家協会やロシア民族楽器オーケストラが生まれ、音楽学校でバラライカやドムラの演奏がカリキュラムに導入された。 1917年にロシア革命が起こると、アンドレーエフと「大ロシア合奏団」はソビエト政府に協力し、ロシア内戦時には前線でコンサートをして回った。1918年にアンドレーエフが没すると、彼の構想はレニングラード(現サンクトペテルブルク)とモスクワの二つのプロ・オーケストラに引き継がれた。
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大ロシア合奏団
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「ワシーリー・アンドレーエフ」の記事における「大ロシア合奏団」の解説
1897年、アンドレーエフはロシア民族楽器オーケストラを創立し、「大ロシア合奏団(ロシア語: Великорусский оркестр)」と名付けた。合奏団は、バラライカ群とドムラ群を組み合わせ、2種類のグースリを取り入れた22人編成であった。 なお、オーケストラの編成は撥弦楽器のみであり、管楽器は含めなかった。これについて、アンドレーエフは「ドムラ、バラライカ、グースリのオーケストラは、ロシア民謡を伝える上でより魅力的で典型的なものである。吹奏楽器は、その魅力を出せない」と述べている。 大ロシア合奏団を率いたアンドレーエフは、ロシア国内を演奏旅行に出る。ツァーリ政府はこれを「時期尚早」として妨害し、ウクライナでは町への入場が禁じられ、楽器がつぶされるなどの迫害もあった。しかし、作家のマクシム・ゴーリキー、画家のイリヤ・レーピン、声楽家のフョードル・シャリアピンらが彼のオーケストラを高く評価した。レーピンは、アンドレーエフに手紙を書き、モデスト・ムソルグスキーの作品に目を向けるように助言している。シャリアピンは、1894年に彼がサンクトペテルブルクにやってきたとき、アンドレーエフがシャリアピンを世話し、マリインスキー劇場の指揮者エドゥアルド・ナープラヴニークに推薦していた関係もあり、しばしばアンドレーエフのコンサートに出演してオーケストラを伴奏にロシア民謡を歌った。また、グラズノフは「大ロシア合奏団」のために『ロシア幻想曲』(1906年初演)を作曲している。 アンドレーエフのオーケストラの評判が高まると、やがて政府もこれを認めるようになった。モスクワでの演奏会では、トルストイの求めに応じてアンドレーエフ自作の『月は輝いている』を3度演奏した。 大ロシア合奏団のドムラ奏者として所属し、のちにバレエ・リュスのダンサー・振付師となったミハイル・フォーキン(1880年-1942年)は、次のように回想している。 「アンドレーエフは非常に多才だった。バラライカの名演奏や、わがオーケストラを天才的に指揮するだけでなく、語りものを見事にこなし、ロシア舞踊を踊ることができた。それは私が出会うことのできたロシア舞踊の中でももっとも才能ある演技だった。彼は、踊るロシア男になりきっていた。ダンスの名手であったわけでもないのに、バレエでも見たことがないような動作における性格描写や踊りへの陶酔を醸し出した。」 1908年から1911年にかけて、大ロシア合奏団はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ合衆国を演奏旅行し、成功を収めた。 大ロシア合奏団の演奏を聴いたドイツの指揮者カール・ムックは次のように述べた。 「それにしても、ロシア民族はなんと才能があるのだろう。スタニスラフスキーの演劇を見、アンドレーエフを聴く前まで、私たちはロシア民族に対して誤った理解をしていた。」 また、大ロシア合奏団がロベルト・シューマンのピアノ曲「なぜに」(『幻想小曲集』作品12より第3曲)の編曲を演奏したとき、指揮者のアルトゥール・ニキシュは「(この曲を)大ロシア合奏団が比べようもないくらい素晴らしく演奏した」と記している。 アメリカでは、新聞が次のような批評を掲載した。 「アンドレーエフがなしとげた音楽芸術の分野の数多い驚くべき発見を、同時代人たちはそのすべてを完全に評価できないだろう。彼の仕事のおかげで、音楽は非常に貧しい人々の層をも除外することなく、一般大衆の手に届くものとなった。教育が平易で、安価であること、レパートリーが広範なこと、並でない美しさと多才な音色―これらはアンドレーエフがつくりあげたロシアの民族音楽が、外見は素朴でありながら、絶大な一般の支持を得た成果による。その特徴は、音楽的な価値の高さにあり、アメリカで流行しているマンドリン、バンジョー、ギターのどんなオーケストラとも比べられないアンサンブルをつくっている。(中略)このような音楽アンサンブルをつくることができるのは、天才のみである。」 この結果、アンドレーエフらが訪問した国々ではロシア・バラライカ演奏愛好協会や、大ロシア合奏団を手本とした民族楽器オーケストラが誕生し、音楽学校ではドムラとバラライカの演奏が教育に導入されるなどした。
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