大ルーマニアにおけるベッサラビア(1918年 - 1940年)
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「モルドバの言語・民族性問題」の記事における「大ルーマニアにおけるベッサラビア(1918年 - 1940年)」の解説
1918年、スファントゥル・ツァリイ(Sfatul Ţării、ベッサラビア議会)はルーマニアとの統合 (Union of Bessarabia with Romania)を決議した。当時、ベッサラビアはルーマニア軍の占領下にあった。スファントゥル・ツァリイはルーマニア軍に協力を求めたとも言われているが、アメリカ合衆国の歴史学者チャールズ・アプソン・クラーク (Charles Upson Clark)は、スファントゥルの議長やルーマニア軍を地域に招き入れたベッサラビア暫定政府への抗議、そしてルーマニア軍に迅速な撤退を求める強い抗議があったことを記している。こうした情勢を考慮して決議は、ルーマニアの学者クリスティナ・ペトレスク (Cristina Petrescu)やアメリカ合衆国の歴史学者チャールズ・キング (Charles King)らによって論点となってきた。対して、歴史学者のソリン・アレクサンドレスク (Sorin Alexandrescu)は、ルーマニア軍のベッサラビア進駐は、「統合の原因ではなく、統合を固定化したのみであった」としている。同様に、自転車で大ルーマニア各地をくまなく旅したバーナード・ニューマン (Bernard Newman)は、議決はベッサラビアの趨勢を占める統合への願いを反映したものでない可能性は低く、ルーマニアへの統合へと至る一連の出来事からみても、併合に関して疑問点はなく、ベッサラビアの人々自身による自発的な行動であったとしている。 エマニュエル・ド・マルトンヌ (Emmanuel de Martonne)を引用し、歴史学者のイリーナ・リヴェゼアヌ (Irina Livezeanu)は、統合の当時、ベッサラビアの農民は「依然として自身をモルダヴィア人と呼んでいた」としている。更に、ブコヴィナにおける同様の事項に関するイオン・ニストル (Ion Nistor)による1915年の説明から、当地の農民は自身をモルダヴィア人と呼んでいたが、「(ルーマニア語)標準語の普及に伴い、『モルダヴィア人』の語が『ルーマニア人』へと置き換わった」なかで、「ベッサラビアにはその影響が及んでいなかった」としている。 統一後、ルーマニア国家は全てのルーマニア語話者に共通の民族意識を植えつけることに邁進した。この時期のフランスやルーマニアの軍事報告には、新しいルーマニアの統治機構に対する、モルダヴィアを含む地域住民の閉口や反発への言及がみられる。ルーマニア政府関係者の間でも、都市部に住む一部のロシア化された知識層の間で、モルダヴィア語あるいはルーマニア語への拒否反応があったと報告している。リヴェゼアヌはまた、教育を受けたモルダヴィア人の間で、ルーマニア国家を未開の国とみなし、軽視する風潮があることを指摘している。ベッサラビアでは、大ルーマニアの他の地域に比べて開発が遅れていたことや、新しいルーマニアの統治機構への不適合、汚職などにより、「ベッサラビアの農民をルーマニア人にする」プロセスは他のルーマニアの地域よりも遅れており、後のソヴィエト占領下の時代に打ち崩された。クリスティナ・ペトレスクは、ロシア・ツァーリズムの統治から、中央集権化されたルーマニア国家の統治への移行の中でモルダヴィア人は疎外され、「同胞との統一」よりも占領されたとの思いを抱かせたと指摘している。ベッサラビアのバルツィ郡の村々に住む住民が語った話に基づき、ペトレスクは、ベッサラビアはルーマニア中央政府が「共通の民族意識を導入する」ことに成功しなかった唯一の地域であるとし、住民の多くは「自身をルーマニアの一部とすら思わず、政府の主張に反し、地域的なアイデンティティをもつのみであった」と述べている。
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