大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド
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「ルーヴル美術館」の記事における「大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド」の解説
詳細は「ルーヴル・ピラミッド」および「ルーヴル・逆ピラミッド」を参照 1874年までにルーヴル宮殿は現在の構成となった。ほぼ正方形の宮殿本体、中庭 (Cour Carrée) の東に面する最古の建築物シュリー翼 (Aile Sully)、ナポレオン広場 (Cour Napoléon) の北に面するリシュリュー翼 (Aile Richelieu) と、広場の南に面するセーヌ川沿いのドゥノン翼 (Aile Denon) である。1983年に、当時のフランス大統領ミッテランが推進した「パリ大改造計画 (en:Grands Projets of François Mitterrand)」の一環である「大ルーヴル計画 (Grand Louvre)」で建物が改築されるとともに、それまでルーヴル宮殿内にあった財務省が移設され、宮殿施設全体が美術館となった。そして建築家イオ・ミン・ペイから、ナポレオン広場に設けられた新たなエントランスにガラス製のピラミッド (en:Louvre Pyramid) を建築する提案がなされた。このピラミッドと直下の地下ロビーが落成したのは1988年10月15日のことである。そして大ルーヴル計画の第二段階として、1993年に地下のカルーゼル・ショッピング・モールに、採光用途を兼ねる逆ピラミッド (en:La Pyramide Inversée) が完成した。従来の宮殿入口には、多数の来館者をさばききれないため行列ができるという問題があったが、ナポレオン広場の広大な地下エントランスがその問題を解決した。2002年以降のルーヴル美術館入場者数は、この大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している。
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大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド
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「ルーヴル宮殿」の記事における「大ルーヴル計画とルーヴル・ピラミッド」の解説
詳細は「ルーヴル・ピラミッド」を参照 1983年に当時のフランス大統領フランソワ・ミッテランが、「パリ大改造計画 (en:Grands Projets of François Mitterrand)」を推進した。この計画の一環として「大ルーヴル計画 (Grand Louvre)」が実施されることとなり、1983年に大ルーヴル計画公団が設立された。この計画では、ルーヴルの建造物の修復と、リシュリュー翼に収容されていた財務省を移設して、建物全体を美術館として使用することが決められた。さらにアメリカの建築家イオ・ミン・ペイに、クール・ナポレオンの中央に新たに設置するメイン・エントランスの設計が任され、1989年にルーヴル・ピラミッドと呼ばれるガラス製の近未来的なデザインのピラミッドが完成した。完成当初には、古典的建築物であるルーヴルに、このような建造物は相応しくないのではないかという議論が巻き起こったが、徐々に新たなパリのランドマークとしてパリ市に受け入れられつつある。1993年にはルーヴル・ピラミッドと対となるルーヴル・逆ピラミッドが完成した。2002年以降のルーヴルの入場者数は、大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している。 大ルーヴル計画の一環として、ルーヴルでは建物の場所によって全体を大きく三つに分け、主たる建物の名前で呼ぶことを決めた。ルーヴルのメインエントランスであるルーヴルピラミッドの地下からの順路として、東へ向かうシュリー翼、北へ向かうリシュリュー翼、そして南へ向かうドゥノン翼である
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