塑像仏・彫像仏
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「長崎県指定文化財一覧」の記事における「塑像仏・彫像仏」の解説
国指定重文の彫像仏は、長崎市脇岬町観音寺の木造千手観音立像1件のみである。 名称位置指定日解説崇福寺本堂の仏像群 長崎市鍛冶屋町 崇福寺 1960年7月13日 大雄宝殿に安置された釈迦如来と迦葉・阿難両脇侍、十八羅漢の乾漆像21躯を一括指定。釈迦像に収められた五臓六腑に承応2年(1653年)、羅漢像寄進者名巻子に延宝5年(1677年)の記録があり、明朝末期の中国人仏師の作品と見られる。 法清寺観音堂の木彫仏像 15体〔附〕2件 対馬市厳原町樫根 法清寺 1973年5月18日 平安時代に国内で開眼したと推測される仏像群。明治21年(1888年)に鶴野の観音堂から法清寺本堂に移されたため、本尊の千手観音とは関連性がなく、時期や大きさもまちまちで15躯に統一規格はない。本土に見られない土着の形相が特徴。 明星院の木造阿弥陀如来立像 五島市吉田町 明星院 1977年7月29日 国指定重文の銅造如来立像とともに、明星院の代表的な仏像。前後の胴に頭部を差した寄木造の檜製木像である。由緒は不明だが、中空部に正平3年(1358年)・文明9年(1477年)・天正3年(1581年)の墨書が穴から確認できる。 長徳寺の木造阿弥陀如来立像 壱岐市芦辺町箱崎中山 長徳寺 1974年10月8日 平安末期の開眼と推測される全高1m弱の阿弥陀如来。来迎印を結ぶ左手の指が欠損している。平安期の日本では省略されることの多い腹前の結び紐が彫られており、省略しない習慣が強かった大陸の影響があると推測されている。 定光寺の木造宝冠釈迦如来坐像 壱岐市芦辺町湯岳本村 定光寺 1974年10月8日 南北朝時代の開眼と推測される全高1m弱の釈迦如来。髪型と宝冠は菩薩形だが、全身の衣や禅定印は如来の相で、密教で信仰された華厳の釈迦像と見られる。宋朝の影響を受けた鎌倉彫刻を継承した畿内の仏師が彫ったといわれる。 菩提寺の木造薬師如来坐像 長崎市深堀町 菩提寺 2007年3月2日 平安時代の開眼と推測される薬師如来。典型的な藤原様式の座像で、長崎市内では古い木彫像とみなされる。一部に修補付加された痕跡が見受けられる。 大雄寺の十一面観世音菩薩坐像 諫早市西小路町 諫早市郷土館 1977年5月4日 竜造寺家晴が入手し、城山の慈現院に安置していたものを諫早茂行が元文4年(1740年)に大雄寺に移したとされる全高32センチの十一面観音像。県内では制作年代が明確な数少ない仏像で、永正10年(1513年)11月18日の銘文を持つ。 阿弥陀寺の木造十一面観世音菩薩坐像 平戸市野子町 阿弥陀寺 1974年10月8日 開眼時期は不明だが、様式から畿内の仏師による作品と推測される全高55センチの像。檜寄木造で漆箔・黒漆塗で装飾も細やかに作られている。 和銅寺の十一面観世音菩薩立像 諫早市高来町法川 和銅寺 1973年5月18日 行基が開眼したとする伝説があり、行基七観音の一つに数えられる。室町時代に制作されたと思われる楠材の木彫仏。補修の痕跡が少なく、開帳は60年に一度の秘仏として厳重に保存されているため、開眼時の状況がかなり保存されている。 法清寺観音堂の木造千手観音立像1体 対馬市厳原町樫根 法清寺 1988年9月30日 平安時代末期に開眼したと推測される千手観音像。法清寺の本尊だが、文化財指定は鶴野観音堂から移した15躯より15年遅れた。檜製寄木割矧技巧を用い、部品を精巧に組み合わせている。ただし頭上にあるべき十一面が失われている。 寿昌寺の如意輪観音坐像 松浦市志佐町里免 寿昌寺 2014年3月25日 康永3年(1344年)に開眼した高さ78cmの如意輪観音像。体内に銘文が残され、開眼年のほかに志佐有の発願・仏師幸心の作であることが判明している。前後を貼り合わせた寄木作りで、表面の金箔や眼の水晶などが良好に保存されている。 円光寺の木造不動三尊像 壱岐市郷ノ浦町大原 円光寺 1980年2月29日 平安時代末期に開眼したと推測される不動明王と室町末期~江戸初期に追加された脇侍からなる。不動明王は檜製割矧技法で作られた全高164センチの巨像。脇侍は伊勢童子と春日童子と推測され、楠材一本から同時に彫り出した。
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