報道写真の時代とは? わかりやすく解説

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報道写真の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:52 UTC 版)

日本写真史」の記事における「報道写真の時代」の解説

この時期報道写真大きな特徴としては、社会性の(極端なまでの)重視と、従来写真とは異なりアマチュア排しプロ世界となっているという点を挙げることができる。先に紹介した伊奈信男論文写真帰れ」(雑誌光畫第1号1932年掲載)は、そもそも報道写真社会性優位主張内包していたといってよく、この時点にすでに報道写真の時代への萌芽があったといえる偶然にも、以降の報道写真の時代を牽引する代表的写真家編集者1人である名取洋之助ドイツから帰国したのも、同じ1932年であったまた、報道写真出版メディアとの連携必須であり、特に新聞単なるニュース写真」にとどまる)を超えるものが必要であるが、日本初グラフ雑誌である『アサヒグラフ』は1923年創刊しており、これが『LIFE』の創刊1936年)よりかなり前であるという点については、注目しておく必要がある大久保好六等が活躍)。しかし、写真中心に据え出版メディア本格化するのは、以下のとおり1930年代半ばである。 名取洋之助中心に伊奈信男木村伊兵衛原弘岡田桑三らが日本工房設立したのは1933年意見の相違原因とする伊奈木村、原、岡田ら(すなわち設立メンバーのほとんど)の脱退を受け、1934年第2次日本工房となり(土門拳河野鷹思亀倉雄策山名文夫藤本四八らが加わった)、同年に、世界的なレベル本格的グラフ雑誌として日本では最初のものである対外宣伝誌『NIPPON』が創刊された(1944年までに36号刊行渡辺義雄堀野正雄写真掲載された)。一方日本工房脱退組を中心に1934年中央工房設立され1941年東方社となり(渡辺義雄菊池俊吉濱谷浩渡辺勉光墨弘大木実林重男薗部澄らも参加)、1942年雑誌FRONT』を創刊した。『FRONT』では、ソ連の『CCCP НА СТРОЙКЕ建設のソ連邦ソ連邦建設)』(1930年創刊)に範を取った大胆な紙面構成レイアウト等)のもと、フォトモンタージュ技法などが駆使され、その芸術的表現的な点からのみ評価すれば戦前日本グラフ雑誌頂点ということができる(1945年までに、10冊が制作され、うち9冊が刊行された)。 これ以外にも、「青年報道写真研究会」が1938年に、土門、濱谷、藤本四八光墨弘加藤恭平東京工芸社または東京光芸社)、田村茂らにより結成されたり、雑誌写真週報』が1938年内閣情報部により創刊されたり、1940年には、「日本報道写真家協会」が土門拳らによって結成されたりすることで、戦時向かって政府恣意的な庇護の元、報道写真はその一時的な独占的繁栄謳歌することになる。 その繁栄の中で、報道写真は、新興写真飲み込んでいき、アマチュア写真家芸術写真前衛写真社会性がないとして排斥していく。しかし、報道写真そのものも、最終的に戦争飲み込まれ、その自由をほぼ失ってしまう。その理由は、日本における報道写真の「社会性」の脆弱さゆえだけではなく本質的に、「社会性」には、そもそも社会にからめとられるという弱点内包されていることによる報道写真このような動きは、戦争加担という評価免れることができないものの、同時に時勢あらがうことができず、戦時において生き残るためにやむをえないことであったという評価もできる。ただ、その中で濱谷浩土門拳のように、自らその流れから脱落し別な切り口社会を見つめる独自の世界へ向かう展開も見られた。 一方社会性がないとされ写真家時代歪められていった器用さのない者は自己の世界閉じこもらざるをえず(中山岩太)、器用な者は自己の世界の(部分的な放棄転向分裂シリーズ半世界」(1940年vs.写真週報」など)を余儀なくされる小石清)。また、沈黙に向かう者もいた(野島康三)。この中で安井仲治は、写真多様性認めつつ、時代屈せずに、従来からの姿勢変えない代表的な写真家だったといえよう例えば、シリーズ流氓(るぼう)ユダヤ』(1941年))。ただ、安井1942年には他界してしまい、このような動きはほぼ途切れた。しかし、その死により、政府のより厳し追及受けずにすんだということ考えると、皮肉ではあるが、安井早い死は、かえって彼自身にとっては幸福だったといえるかもしれない不思議なことに、報道写真だけが、戦後に、戦争加担という非難をもってしてもつぶされることなく、太い流れ明確に継続することになる。写真歴史という観点から見れば、この時期報道写真については、「戦争加担」という非難該当するというよりも、報道写真家呼べないよう写真家報道写真家から言わせれば、「社会性」の欠如した写真家たち)を排斥したこと(多様性という摘んでしまったこと)に、より多く問題があったとも考えられる。そして、このような排斥」は、やや形を変えて戦後もある期間継続することとなる。

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報道写真の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:55 UTC 版)

写真史」の記事における「報道写真の時代」の解説

1920年代頃から、撮影印刷技術発展マスメディア発展読者の「見たい」という欲望開拓)により、報道写真(フォトジャーナリズム・グラフジャーナリズム)が勃興しはじめ、第二次世界大戦はさんで、その繁栄が続く。1936年雑誌ライフ創刊1947年マグナム・フォト設立などは、それを象徴する出来事である。 報道写真は、真実を写すことが求められる。すなわち「やらせ」や「うそ」を報道することは否定される。ただし、真実1つだけではなく複数のうちか選択できる可能性があり、また、その選択において、自己の主張含めることもできる。これは、すなわち、写真利用仕方により、ある程度範囲「真実」選択が可能であることを意味している。典型的には、「プロパガンダ」であり、ケースにより、それは、真実とはいえないものまで含みうる。また、報道写真において、スクープ重視する方向も、この「選択可能性」という性質深くかかわっている。 報道写真は、外見的には、ストレートフォトグラフィーを用いている。

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