国鉄における戦後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 14:13 UTC 版)
「日本の電気式気動車」の記事における「国鉄における戦後の展開」の解説
戦後も燃料事情の悪さから気動車の活用はままならなかったが、これが改善された1950年以降、戦前の気動車の再生措置や、新規の気動車製造が、本格的に開始される。だがこれらはすべて機械式気動車であった。 日本国有鉄道は1950年に80系電車を開発して東海道本線に投入、従来機関車牽引の客車列車が主力であった中・長距離列車の分野について、電車で代替できることを証明した。電車に代表される動力分散方式は、加減速性能や線路への悪影響の少なさで、機関車方式より有利であり、80系電車は戦後の国鉄近代化の尖兵となった。 しかし、当時の日本では鉄道の電化区間自体が少なく、多くの路線は主要幹線も含め、維持と運行に経費のかかる蒸気機関車がほとんどすべての列車を牽引していた。このような非電化路線の近代化には、ディーゼル動力の採用が不可欠だった。 蒸気機関車を排除してディーゼル動力に切り替える「無煙化」は、乗客・乗員や沿線への煙害を無くすとともに、列車速度の向上、エネルギー効率の改善、保守・点検の効率化等、鉄道の抜本的な体質改善に寄与するものである。 だが1950年代初頭の日本では、鉄道用ディーゼルエンジン技術が十分な発達を見ていなかった。ことに大型蒸気機関車を代替できるような大型ディーゼル機関車の開発は、大出力エンジンの開発困難によって阻害されており、本格的な大出力機関車は1960年代まで出現しなかった。 相前後して、1936年から1940年にかけて試験途上に在った気動車用液体式変速機の実用化開発が1951年以降台上試験から再開され、同年からキハ42500形に搭載しての実用化試験が開始されていた。 液体式のレイアウト自体は機械式気動車の変速機のみをトルクコンバータ動力伝達に置き換えたような構造である。絶対的な動力伝達効率は電気式に劣るものの、低出力車の場合は電気式より低コストかつ軽量に仕上がり、総合的には効率が良い。総括制御についても、戦前の鉄道省時代、既に液体式変速機開発と並行して専用の電磁遠隔制御システムが開発されており、この面での障害もなかった。 このため、国鉄工作局動力車課の技術陣は液体式を戦後形気動車システムの本命と考えて開発を進めており、実用化目標を1952年中と計画していたが、実際には計画どおりに行かず、1951年から1952年にかけての試験でトラブルが続いており、速やかに量産化して実用投入できる状態になかった。 一方で気動車用のディーゼルエンジンとしては、DMH17形 (150 PS / 1500 rpm) が1951年より量産され、機械式気動車に搭載されて好成績を収めていた。既に使えるエンジンがあるという情勢下、国鉄上層部では、総括制御可能な編成運転のできる気動車の早急な実用化を、気動車開発陣に強く要求した。 やむなく動力車課では、液体式が使用可能になるまでの「当座の実用になる総括制御気動車」として、DMH17系エンジンを利用し、開発が比較的容易な電気式気動車、それも比較的簡略なシステムのモデルを先行製作することを決定した。その産物がキハ44000形気動車である。 当時の開発担当者であった北畠顕正は晩年のインタビューで44000形の開発について「電気式を実用化させようとは思っていなかった」「総括制御気動車を求める上層部へのポーズのために作った車両」とまで語っている。 かつて日本の気動車の歴史では、1950年代初頭の時点で国鉄によって電気式と液体式が比較され、液体式の優位性が実証されたためこちらが採用された、という理解が為されてきたが、北畠証言が事実であれば、国鉄は戦後の総括制御気動車開発の再開時点で、既に電気式気動車の将来性に見切りを付けていたと解するべきであろう。
※この「国鉄における戦後の展開」の解説は、「日本の電気式気動車」の解説の一部です。
「国鉄における戦後の展開」を含む「日本の電気式気動車」の記事については、「日本の電気式気動車」の概要を参照ください。
- 国鉄における戦後の展開のページへのリンク