合肥戦線
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ある時、張遼は護軍の武周と仲違いし、揚州治中の胡質を護軍にしてもらえるよう揚州刺史の温恢に求めた。胡質は武周が優れた人物であるのに張遼が仲違いしたことを理由に辞退し、張遼は反省して武周との仲を修復した(「胡質伝」)。 建安19年(214年)5月、孫権は皖への攻撃に攻略した。後に曹操の援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城の知らせを聞き退却した。 建安20年(215年)8月、張遼は楽進・李典と共に合肥に駐屯していたが、孫権は自ら10万と号した大軍を率い侵攻してきた(合肥の戦い)。曹操は張魯を攻撃するため漢中に遠征していたが、護軍の薛悌を遣わし三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城で護軍を守れ」という指令を与えていた。張遼はこれに基づいて作戦を立て、楽進が薛悌と共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。楽進・李典・張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。 孫権軍の先行部隊が到着すると、孫権軍が集合していない時だったので、張遼は鎧を着込み戟を持ち、自ら先鋒となって敵陣へ突撃し、敵兵数十人と2人の将校を斬り、孫権まで迫ったので、孫権は戟を持って戦いつつ退走した。張遼は孫権の軍勢が丘に退げたのを見ると、孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が寡兵である事を見てとり、張遼軍を囲んだが、張遼の兵たちは「将軍、私たちを見棄てるのですか」と悲鳴をあげた。張遼は再び引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先行部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。孫権の後続部隊が続々と到着し、潘璋・賀斉が張遼を押し返し、前線が維持することに成功した。張遼は合肥に引き返し、士気が回復した孫権軍は十数日間ほど合肥城を包囲したが、しかし疫病で撤退した。 この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。孫権らの軍勢が寡兵である事を見た張遼は7000余の騎兵を引き連れ、城から出て追撃した。退路には川が流れており、逍遥津に津橋という橋が架かっていた。この時、孫権の大軍が既に前線から撤退し、逍遥津の北には孫権と残りの近衛歩兵1000人余りと、呂蒙・蔣欽・凌統・甘寧が残るのみであった。孫権軍は張遼に追撃され、呂蒙・凌統が死に物狂いで殿軍を務め、これに応戦した。孫権は騎射で急襲に応じ、橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、谷利が孫権の馬に鞭を当てて勢いをつけさせ、孫権はその勢いのままにこれを飛び越えたと言われる。張遼らは凌統の配下300人を全滅させ、凌統は張遼軍の兵士を数十人殺し、全身に傷を負いながらも、孫権が退却した事を知ると泳いで退いた。 孫権の勇武と騎射には張遼も賛嘆させられ、孫権を知らなかった張遼が戦いの後、呉の降兵に「今しがた、紫の髯をたくわえ背丈は高いが足が短く、馬に達者で弓の巧い将軍がいたが、あれは誰か」と尋ねると、降兵は「その方が孫会稽様でございます」と答えた。それを聞いた張遼は、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ。張遼はこの戦功で征東将軍に任命された。 建安21年(216年)、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼が戦った場所を見て嘆息したという。張遼の兵士を増加させ、居巣に駐屯させた。 建安22年(217年)2月、濡須口の戦いでは臧覇と共に先鋒を務め、孫権の築城部隊を撤退させた。曹操軍が先行したため、大雨が降って水位が上がり孫権軍が迫ってきた。将士は不安になり、これを恐れて張遼は撤退を考えたが、臧覇は曹操が自分たちを見捨てる事はないから命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に後退命令があった(「臧覇伝」)。後退した曹操軍の先鋒部隊が陣を築きに、その隙を突き呂蒙が曹操の大軍を打ち破る。結局曹操は濡須塢で孫権の長江防衛を攻め落れず、逆に孫権軍に撃退され戦果もなく引き揚げた。戦いの後に張遼を引き続き留め置き、居巣に残留する夏侯惇の下に置いた。 建安24年(219年)、関羽が曹仁を包囲した時、孫権は同盟していたため揚州への備えの必要がなかったことから、曹操は張遼らの軍を曹仁の救援に向かわせた。張遼が辿り着かないうちに、徐晃が関羽を破って曹仁の包囲を解いていた。張遼は曹操の本営がある摩陂に出向き、曹操は張遼を労った。その後、陳郡に駐屯した。 延康元年(220年)、正月に曹丕が王位に即くと、夏侯惇の後任となる前将軍に任じられ、領地を分割して兄の張汎と一子を列侯に封じることを許された。孫権が再び反乱を起こすと、合肥に戻った。都郷侯に昇進し、母や家族も厚遇を与えられた。10月、曹丕が帝位に即くと晋陽侯に封ぜられ、食邑1000戸を加増されて、以前と合せて2600戸となった。 黄初2年(221年)、張遼が洛陽に入朝すると、曹丕(文帝)は張遼を建始殿に案内した上で引見し、合肥などでの戦況の話を聞き、その武勇を召虎に例えこれを称賛した。張遼のために邸宅が建てられ、張遼の母のためにも御殿が造成された。また、合肥で張遼の求めに応じて突撃した兵士たちは、近衛兵に取り立てられた。孫権が再び藩属したため、張遼は雍丘に駐屯したが、病気に罹った。曹丕は侍中の劉曄と太医を派遣し手厚く見舞いを送り、元の部下達も心配した。またある時は、曹丕自身の行在所に張遼を招き、親しく見舞ったりもした。張遼は病気が少し直ったところで、元の駐屯地に戻る事になった。 黄初3年(222年)、再び反乱を起こした孫権を討つため、曹丕は張遼に命令し、曹休と共に海陵に行き、長江の畔に布陣する事を命令した。張遼は病身であったが、孫権は「張遼、病むと雖も当るべからず(「張遼伝」)。これを慎め(張遼が病んでいるのだとしても、軽々しく挑んではならず、これには危機感を持って当たらなければならない)」と言い。張遼は曹休や臧覇と共に呂範を破った。後に呉軍は臧覇を反撃して破り、尹魯を討ち取ったが、曹休と張遼などが呉軍に打ち破られ、その後、病が重くなり江都で死去した。曹丕は涙を流しその死を悼んだ。剛侯と諡され、子の張虎が爵位を継いだ。 黄初6年(225年)、曹丕は張遼と李典の合肥での戦功を称するため詔勅を出し、それぞれの領地から100戸を分割して、1子を関内侯に封じた。 正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には張遼も含まれている(「斉王紀」)。
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