合肥戦線とは? わかりやすく解説

合肥戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:07 UTC 版)

張遼」の記事における「合肥戦線」の解説

ある時、張遼護軍武周仲違いし揚州治中の胡質護軍にしてもらえるよう揚州刺史温恢求めた胡質武周優れた人物であるのに張遼仲違いしたことを理由辞退し張遼反省して武周との仲を修復した(「胡質伝」)。 建安19年214年5月孫権は皖への攻撃攻略した。後に曹操援軍として張遼が夾石まで来ていたが、落城知らせ聞き退却した建安20年215年8月張遼楽進李典と共に合肥駐屯していたが、孫権は自ら10万号した大軍率い侵攻してきた(合肥の戦い)。曹操張魯攻撃するため漢中遠征していたが、護軍薛悌遣わし将に文書で「張遼李典は城を出て戦い楽進は城で護軍守れ」という指令与えていた。張遼はこれに基づいて作戦立て楽進薛悌と共に城を守り張遼李典と共に出撃して敵軍出鼻挫くことにした。楽進李典張遼元来不仲折り合い悪かったが、国家の危機にあって私怨問わないとし、共同してこれに当たった夜中敢えて自らに従うという精兵選別し800人を集め、牛を殺して将兵振る舞い翌朝出撃した。 孫権軍先行部隊到着すると、孫権軍集合していない時だったので、張遼は鎧を着込み戟を持ち、自ら先鋒となって敵陣突撃し敵兵数十人と2人将校を斬り、孫権まで迫ったので、孫権は戟を持って戦いつつ退走した。張遼孫権軍勢が丘に退げたのを見ると、孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権張遼らの軍勢寡兵である事を見てとり、張遼軍を囲んだが、張遼の兵たちは「将軍私たち見棄てるのですか」と悲鳴をあげた。張遼は再び引き返して包囲中に突入配下助け出し、さらにまた包囲破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍先行部隊はすっかり意気消沈し、この奮闘勇気づけられて曹操軍将兵は城を守り通した孫権後続部隊続々到着し潘璋賀斉張遼押し返し前線維持することに成功した張遼合肥引き返し士気回復した孫権軍十数日間ほど合肥城包囲したが、しかし疫病撤退した。 この時、孫権最後衛で配下武将と共に撤退指揮を執っていた。孫権らの軍勢寡兵である事を見た張遼7000余の騎兵引き連れ、城から出て追撃した退路には川が流れており、逍遥津に津橋というかっていた。この時、孫権大軍が既に前線から撤退し逍遥津の北には孫権残り近衛歩兵1000余りと、呂蒙蔣欽凌統甘寧が残るのみであった孫権軍張遼追撃され呂蒙凌統死に物狂い殿軍務め、これに応戦した孫権騎射急襲応じまで退却したが、はすでに曹操軍撤去されていたため、谷利孫権の馬に鞭を当てて勢いをつけさせ、孫権はその勢いのままにこれを飛び越えたと言われる張遼らは凌統配下300人を全滅させ、凌統張遼軍の兵士数十人殺し全身に傷を負いながらも、孫権退却した事を知ると泳いで退いた孫権勇武騎射には張遼賛嘆させられ孫権知らなかった張遼戦いの後、呉の降兵に「今しがた紫の髯をたくわえ背丈は高いが足が短く、馬に達者で弓の巧い将軍がいたが、あれは誰か」と尋ねると、降兵は「その方が孫会稽でございます」と答えた。それを聞いた張遼は、楽進に「あれが孫権知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って捕まえ損ねた事を惜しんだ張遼はこの戦功征東将軍任命された。 建安21年216年)、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼戦った所を見て嘆息したという。張遼兵士増加させ、居巣駐屯させた。 建安22年217年2月濡須口の戦いでは臧覇と共に先鋒務め孫権築城部隊を撤退させた。曹操軍先行したため、大雨降って水位上がり孫権軍迫ってきた。将士不安になり、これを恐れて張遼撤退考えたが、臧覇曹操自分たちを見捨てるはないか命令を待つべきだと反対した。果たし次の日に後退命令があった(「臧覇伝」)。後退した曹操軍先鋒部隊が陣を築きに、その隙を突き呂蒙曹操大軍打ち破る結局曹操は濡須塢で孫権長江防衛攻め落れず、逆に孫権軍撃退され戦果もなく引き揚げた。戦いの後張遼引き続き留め置き居巣残留する夏侯惇の下に置いた建安24年219年)、関羽曹仁包囲した時、孫権同盟していたため揚州への備えの必要がなかったことから、曹操張遼らの軍を曹仁救援に向かわせた。張遼辿り着かないうちに、徐晃関羽破って曹仁包囲解いていた。張遼曹操本営がある摩陂に出向き曹操張遼を労った。その後陳郡駐屯した。 延康元年220年)、正月曹丕王位に即くと、夏侯惇後任となる前将軍任じられ領地分割して兄の張汎一子列侯封じることを許された。孫権が再び反乱を起こすと、合肥戻った都郷侯に昇進し、母や家族厚遇与えられた。10月曹丕帝位即く晋陽侯に封ぜられ、食邑1000戸を加増されて、以前合せて2600となった黄初2年221年)、張遼洛陽入朝すると、曹丕文帝)は張遼建始殿に案内した上で引見し、合肥などでの戦況の話を聞き、その武勇を召虎に例えこれを称賛した張遼のために邸宅建てられ張遼の母のためにも御殿造成された。また、合肥張遼求めに応じて突撃した兵士たちは、近衛兵取り立てられた。孫権が再び藩属したため張遼雍丘駐屯したが、病気罹った曹丕侍中劉曄と太医を派遣し手厚く見舞い送り、元の部下達も心配した。またある時は、曹丕自身行在所張遼招き親しく見舞ったりもした。張遼病気が少し直ったところで、元の駐屯地に戻る事になった黄初3年222年)、再び反乱起こした孫権を討つため、曹丕張遼命令し曹休と共に海陵行き長江の畔に布陣する事を命令した張遼病身であったが、孫権は「張遼病むと雖も当るべからず(「張遼伝」)。これを慎め張遼病んでいるのだとしても、軽々しく挑んではならず、これには危機感持って当たらなければならない)」と言い張遼曹休臧覇と共に呂範破った。後に呉軍臧覇反撃して破り、尹討ち取ったが、曹休張遼などが呉軍打ち破られその後、病が重くなり江都死去した曹丕は涙を流しその死を悼んだ。剛侯と諡され、子の張虎爵位継いだ黄初6年225年)、曹丕張遼李典合肥での戦功称するため詔勅出しそれぞれの領地から100戸を分割して、1子を関内侯封じた正始4年243年)秋7月曹芳斉王)は詔勅下し曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には張遼含まれている(「斉王紀」)。

※この「合肥戦線」の解説は、「張遼」の解説の一部です。
「合肥戦線」を含む「張遼」の記事については、「張遼」の概要を参照ください。

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