合肥新城の築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:32 UTC 版)
230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。曹休の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済はこれを「味方の士気を削ぐ」と反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡(明帝)の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。
※この「合肥新城の築城」の解説は、「合肥の戦い」の解説の一部です。
「合肥新城の築城」を含む「合肥の戦い」の記事については、「合肥の戦い」の概要を参照ください。
- 合肥新城の築城のページへのリンク