合衆国からの反体制活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:04 UTC 版)
「ハリファ・ハフタル」の記事における「合衆国からの反体制活動」の解説
カダフィは、ハフタル以下の兵士たちのリビアへの送還を求めたが、アメリカ人たちの工作により、彼らはカダフィと対立するモブツ・セセ・セコ政権下のザイールに空輸された。そこで、兵士たちの半数はリビアへの帰還を決めた。1987年の遅い時期に、ハフタルと一部の士官たちは、合衆国が支援していた反体制グループであったリビア救国国民戦線(英語版) (NFSL) に同調することとなった。1988年6月21日、ハフタルはNFSLの軍事部門の設立を宣言し、これをリビア国民軍 (Libyan National Army) と名付け、自らが指揮者となった。合衆国からモブツ政権への財政支援が打ち切られた際、ザイールはその時点で領内に残っていたハフタルたちをケニアに追放した。ケニアは彼らに一時的な滞在しか認めず、CIAは1990年ころに再定住策をまとめ、ハフタルと配下の300人ほどが、合衆国の難民受け入れ計画の一環として合衆国に移り住んだ。実のところ、冷戦の終結によって、リビアの地理的戦略性は後退し、ハフタルたちの部隊に対するCIAの資金支援策は、差し止められていた。 1996年3月、ハフタルは、リビア東部キレナイカの山地で、反カダフィの蜂起に加わったが、その後、合衆国に舞い戻った。 ハフタルは、ワシントンD.C.近郊のバージニア州フォールズチャーチに、2007年まで住んでいた。その後、バージニア州ビエナに移った。そこから、多くの場合は国防情報局 (DIA) や中央情報局 (CIA)などアメリカ合衆国の情報関係者たちとの親密な接触を通して、ハフタルは、カダフィの打倒や暗殺を試みるいくつもの企てを支援し続けた。
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