合衆国からの脱退と南北戦争(1860年 - 1865年)
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「ルイジアナ州の歴史」の記事における「合衆国からの脱退と南北戦争(1860年 - 1865年)」の解説
ルイジアナ州はそのプランテーション経済に伴い、奴隷化されたアフリカ系アメリカ人の労働と取引から富を作り出す州だった。合衆国でも最大級の自由黒人人口を抱えた州でもあり、1860年には18,647人に上った。自由黒人の大半(フランスの伝統に従えば有色自由人)はニューオーリンズ地区と州の南部に住んだ。南部の他の地域と比べて有色自由人の大半は混血で有る場合が多かった。ニューオーリンズの自由黒人は中流階級であり教育もあった。多くは資産家だった。対照的に1860年の国勢調査によれば、州人口708,002人のうちの47%近くにあたる331,726人が奴隷だった。 治水用堤防を築くこととそれを入念に仕上げることは、特に綿花とサトウキビという輸出用作物を育てるための州の能力に重要なことだった。奴隷化されたアフリカ人がまず農園主の指示で堤防を造った。後に堤防の大半は、州のために働くよう契約者が雇用したアイルランド系移民によって、拡張され高くされまた追加された。19世紀が進んでいくと、州は堤防建設を確保していくことに興味を持った。1860年までに、ルイジアナ州はミシシッピ川沿いで740マイル (1,180 km)、他の水系で450マイル (720 km)の堤防を建設した。この巨大な土木事業の大半は手作業で行われた。堤防の高さは6フィート (1.8 m)、場所によっては20フィート (6 m)になった。 選挙権のある特権階級白人が奴隷制を維持することに強い経済的利益を依存しており、これがルイジアナ州の合衆国からの脱退を決意させることになった。エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれると他の南部州も続いて脱退した。ルイジアナ州の脱退は1861年1月26日に宣言され、アメリカ連合国の一部となった。 南北戦争において、ルイジアナ州は北軍がミシシッピ川を確保することで南軍を2つに割るという戦略の結果、早期に敗北した。北軍は1862年4月25日にニューオーリンズを占領した。住民の大半は北部同調者(あるいは商業的利益に相容れるものだった)ので、連邦政府はルイジアナ地区を北軍内の州として連邦の支配下に入れ、独自に選出した代表をアメリカ合衆国議会に送るという、他とは違うやり方を採った。
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