合衆国の「中央銀行」として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 21:53 UTC 版)
「ジョン・モルガン」の記事における「合衆国の「中央銀行」として」の解説
1895年、1893年恐慌の影響でアメリカ合衆国財務省が保有していた金の海外流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。 当時の民主党のグロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。 セオドア・ルーズベルト大統領は不当なトラストに対して、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動し、企業の集中化を牽制した。ルーズベルトの考えは、資本と生産の集中、すなわち企業合同は歴史の必然であり、合衆国に豊かな生活と高い生産性をもたらすものであることは認めるものの、巨大企業は公益の立場から政府の規制を受けなければならないというもので、すなわち、「良いトラスト」を援助しつつも「悪いトラスト」は壊すべきという考えに立ち、そうしないと過激化する「悪い労働組合」がはびこり、社会主義の勃興を許してしまうという考えから導き出されていた。ルーズベルトは大統領職8年の間に44のトラストを告発し、1902年にはモルガンの支配する鉄道トラスト、北方証券会社を起訴し、同社は解散を余儀なくされた。他方、モルガン系で資本金10億ドルの鉄鋼トラスト、USスチールが「1907年恐慌」の際、南部のテネシー石炭・鉄会社を買収することは容認し、モルガン側に妥協した。 モルガンは鉄鋼トラストを形成してから、1907年恐慌の処理では主導的役割を演じた。。1910年11月、モルガンが所有するジキル島クラブ(英語版)で連邦準備制度の設立に向けた秘密会議を主催した。そこにはジョン・ロックフェラー、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト、そしてバンカーズ・トラスト(現ドイツ銀行)のベンジャミン・ストロングなどが出席した。 1912年12月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。ファースト・ナショナル銀行とナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所の裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした。プジョー委員会はインサイダー取引や取引所ぐるみの株価操作が日常化しているウォール街の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募のインベスター・リレーションズを主張したが、第一次世界大戦が勃発して改革は立ち消えとなってしまった。
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