各地での状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:37 UTC 版)
ハワイ 一般的な日本からの移民と同様、ハワイとアメリカ本土西海岸が中心となった。 ハワイではほとんどが官約移民として入りさとうきび畑や製糖業に就いた。当時の状況がわかるものとして「ホレホレ節」という労働歌がある。歌詞が60種類以上あり、以下一例を示す。 今日のホレホレ つらくはないよ きのう届いた 里だより故郷出るときゃ 一人で来たが 今じゃ子もある 孫もあるハワイハワイと 夢みてきたが 流す涙は きびの中行こうかメリケン 帰ろか日本 ここが思案の ハワイ国 — ホレホレ節、 ホレホレとはサトウキビの枯れ葉を手で掻き落とす作業のハワイ語。最後の一節は数あるホレホレ節で最も知られている部分で、労働契約が終わり日本に帰るか米国に渡るか悩んでいることを表している。他の歌詞には広島弁が使われているものもある。元歌は広島や山口出身者が多かったことからその地域の労働歌とされ、一説には櫓歌の呉節とも広島湾での海苔とり歌とも県中央部の籾摺り歌ともと言われている。(音戸の瀬戸#音戸の舟唄も参照)。 契約満了により広島に戻っていったが、中にはそのまま留まるものも出てきて、のちに最初から永住目的で移民するものも出た。契約労働から定住したものは農地を賃貸あるいは購入して農業に励むものもいれば、都市部へ移り雑貨店や製造業、理髪店やホテル食堂などのサービス業を始めた。 またハワイでは人種による賃金格差の是正を求めてストライキを起こした記録がある。中心人物の日布時事(のちの布哇タイムス)田坂養吉は広島出身で、1909年(明治42年)3ヶ月にわたり700人が参加した。結局敗北し、田坂が投獄されたが、その後賃金は増額されている。 北米 当初から契約移民を禁止していたアメリカ本土ではスクールボーイ(低賃金のオペア)・小間使いなどで働いて、そこから様々な業種へ進出していった。のちハワイ併合に伴いアメリカ本土が主流となった。 まずサンフランシスコ港からの移住が始まり、1884年頃からサクラメント近郊の農業労働が盛んになったことで農家出身の広島県人が一気にカリフォルニア州に集まることになり、そこから南下しロサンゼルスを中心とした近郊農業に従事していった。一方西海岸北部のワシントン州へは日清戦争以降にシアトルと日本との定期航路が始まったことで移民が増えていった。ちょうどシアトルータコマ間のノーザンパシフィック鉄道が開通し沿線開発が進んでいた時期でその工事に安佐郡出身者の殆どが従事し、更に近くの山岳では金・鉛・銅の鉱山もあるためその作業員として働き、これが終わると貯めたお金で都市部へ出て食堂・雑貨屋・ホテルなどを開業した。明治37年頃にワシントン州で乳牛牧場が盛んになったことでこれに従事した。それらの東側の山側付近の町にはハワイからの移住が多くを占めた。これらからアメリカ主要都市へと移っていった。 カナダでは、バンクーバーから移住が始まりアメリカと同様の仕事をしていた。 南米 南米への最初の移民はペルーからである。ペルーでは砂糖や綿の農業、石油や鉱業の工業が発達しており早くから移民を必要としていた。当初は砂糖農園での契約労働、のち農業あるいはリマとその周辺に移り商業を営んでいた。 南米最大の移民先はブラジルである。特に州政府が積極的に誘致したため県民ほとんどがサンパウロ州に所在し、当地では農業特にコーヒー農園に従事している。 戦後の沼隈町のパラグアイ移民においては生活に困窮した入植民が広島県知事宛に嘆願書を送っており、これについて1958年7月20日付で地元紙中国新聞のみならず大手新聞各社が一斉に報道している。 アジア フィリピンはハワイと同様に最初期から移民が始まったところである。移民制限を設けていなかったため、アメリカ・ブラジルなど他の移民先が制限を設けた際にその都度代替先として増えた。農業移民が主であったが、他との大きな違いは漁業移民も多かった点にある。 なお、台湾・朝鮮・千島・樺太など戦前日本だった地への正確な移民数は不明。数字が残るものとしては例えば朝鮮へは東洋拓殖による1910年から1926年までの移住民名簿の集計によると171戸の県人が移民しており、これは全国8位に位置し高知・佐賀・福岡・山口・岡山など西日本の各県よりも少ない。
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