各地での遍歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 07:02 UTC 版)
「ヤヌアルィ・スホドルスキ」の記事における「各地での遍歴」の解説
1830年1月、スホドルスキ兄弟は11月蜂起に参加した。ヤヌアルィは第一次ヴァヴェルの戦いやオルシュンカ・グロホフスカの戦い、イガニェの戦いで戦った。戦闘の合間に、彼は兵士たちや同僚たちの1シーンを切り取ったスケッチを描いている しかし11月蜂起はポーランド反乱軍の敗北に終わり、弟ライノルトは戦死してしまった。ヤヌアルィはローマに行き、1832年から1837年までオラース・ヴェルネに師事した。ここで彼は、クラシンスキの息子ジグムント・クラシンスキや、ユリウシュ・スウォヴァツキ、ベルテル・トルバルセン、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベック、ペーター・フォン・コルネリウス、ルイ=レオポール・ロベールと知り合った。1837年、ヤヌアルィ・スホドルスキはワルシャワに帰り、間もなく自身の作品「アハルツィヘ包囲戦」が評価されて帝国美術アカデミーの一員となった。スホドルスキはサンクトペテルブルクに招かれ、ニコライ1世のためにロシア軍の著名な戦闘を描いた。その後いったんワルシャワへ帰り、1844年に今度はパリへ旅立った。1852年にはクラクフへ移り、ここで詩人のヴィンツェンティ・ポルと出会い、彼の詩"Mohorta"のために数点の絵を提供した。1860年、スホドルスキは純粋芸術推進協会の評議員となり、ワルシャワでの美術館の創設に協力した。 1875年3月20日、スホドルスキはシェドルツェ近くのボイミェで没した。
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