官約移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:37 UTC 版)
「ハワイにおける日本人移民」を参照 1885年(明治18年)日布渡航条約が結ばれ、日本政府主導で3年契約でハワイ王国に労働者を送り出す「官約移民」が始まる。政府は北海道とハワイ移住を同時推進した。官約移民は普通に日本で働くよりも高額な賃金が稼げ、政府は3年で400円貯まると謳い、渡航費用も前借りできたことから、応募には多くの人が殺到した。また永住ではなくあくまで出稼ぎ労働を目的としており、さとうきび畑などでの農業労働が主体であった。 広島ではさらに千田貞暁県令がハワイ移民の将来性について説いて回り、県や市町村が直接募集の窓口となったことで、募集に応じるものが増え全国屈指の移民県となった。これに反比例するように北海道移住は激減したものの、途切れたわけではなく主に零細自小作層あるいは小作層の下層細民が移住したとみられている。 年収比較 給金(円) 食費(円) 雑費 男(夫) 女(妻) 男(夫) 女(妻) 官約移民 第1回 108.00 72.00 72.00 48.00 船賃雇主持・薪無料 第4回 180.00 120.00 船賃は自費25ヶ月払 農業年雇 1884年 14.48 7.40 雇主持 雇主持 1885年 9.98 4.98 官約移民数都道府県移民数(人)広島 11,122 山口 10,424 熊本 4,247 福岡 2,180 その他 1,111 計29,084 第1界官約移民募集はその前年1884年(明治17年)に行われ結果的に944人が渡り、うちトップが山口県人の420人、次いで広島県人が222人であった。第4回ではハワイ側から「広島と山口の2県から男子1,100人、女子275人、身体健全、純粋な農夫で年齢25歳前後のものを選んで渡航させてほしい」と要請されるなど、彼らの働きぶりは高く評価されていた。 ハワイに渡った官約移民は稼いだお金を郷里広島に送り帰国の際には持ち帰った。3年で400円貯まると言われていたが実際は天引きされてそこまで貯まらなかった。持ち帰る金を稼ぐため契約期間を過ぎてからも働いたものがいたという。1891年(明治24年)末時点で広島県移民は合計27万円広島に送金しており、これは当時の県予算額の54%相当であった。 広島県移民数(人)年海外北海道備考1891 1,941 181 1892 1,021 810 1893 1,578 1.349 1894 597 1.374 官約廃止・日清 1895 ? 878 1896 ? 901 移民保護法 1897 ? 704 1898 264 808 1899 8,448 649 1900 3,332 648 1901 1,492 609 1902 4,477 590 1903 4,122 653 1904 4,242 677 日露 1905 3,143 715 1906 5,880 691 1907 4,490 752 1908 2,308 972 日米紳士協約 1909 950 1.198 1910 1.956 704 1911 1,478 1.050 1912 2,909 1.046 1913 3,737 1,102 1914 3,609 828 第一次大戦 1915 2,624 1,180 大戦景気 1916 2,998 952 1917 3,451 1,204 1918 2,882 1.340 1919 3,053 1,306 1920 2,631 1.067 戦後恐慌 1921 2,339 859 1922 2,073 729 1923 1,592 747 1924 2,281 578 排日移民法 1925 1,069 752 1894年(明治27年)官約移民は廃止となった。なおこの年に日清戦争が勃発している。移民は計26回にわたり、全体の1/3が広島県人であった。この間、メキシコ・ペルー・オーストラリア・ニューカレドニアなども日本人労働者を欲し日本政府に要望していたという。
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