民間による移民
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1891年(明治24年)日本で最初の移民会社である日本吉佐移民会社が設立、移民の募集が始まった。吉佐に続いて様々な民間会社が出てきたため、官約移民が終わった年である1894年(明治27年)日本政府は移民保護規則を制定、1896年(明治29年)移民保護法制定、海外移民事業を正式に民間に移し政府認定の業者のみが扱うことになった。全国に移民取扱会社が起業し、県内では8社が盛んに勧誘したため、新たな移民先が開拓され一気に移民数が増えることになった。ただ実態のない悪徳業者も横行していた。 吉佐の募集によって広島から1892年(明治25年)オーストラリアクイーンズランド、1894年(明治27年)西インド諸島グアドループおよびフィジー、1900年(明治33年)ニューカレドニア、とそれぞれ初めて移民している。この時期、グアドループへ移民した県民187人中35人が現地で病死し大部分が途中帰国し契約労働満了帰国者が59人、フィジーへの県民108人中36人が病死している。またオーストラリアは白豪主義からの移民制限が1901年(明治34年)から始まったが、ボタン用の真珠を取る海士・海女のみ一定数許可されておりその枠で県民も渡航している。 「黄禍論」も参照 移民業者によるハワイ移民が最盛期を迎えた。また当時アメリカ本土は中国人排斥法があったためそれに代わる安い労働力を欲していたものの、アメリカ政府は出稼ぎ目的の契約移民を認めておらず自由移民のみで更に病人・貧困者と判定した者は入国を許さなかった。そのためアメリカへはハワイあるいはカナダを経由した自由移民の形で行われた。1898年(明治31年)ハワイはアメリカに併合(ハワイ併合)、同年フィリピンもアメリカ植民地(パリ条約)となり日本との間で結ばれていた契約労働は廃止となった。ここでハワイに代わってアメリカ本土への移民が急増した。 日清・日露・第一次大戦開戦時には徴兵や戦争景気などが影響して一時的に移民は減少している。また右表1901年が急激に減っているのは、1899年国内でペスト発生を受けて日本政府が1900-01年の2年間渡航を制限していたためである。これに関連して1900年にはホノルルでペスト患者の家の焼却から延焼して日本人街が大火事となった。 移民による地元広島への送金も続いており、明治30年代後半には県歳入総額を上回るまでになり、当時の県経済にとって貴重な資金流入となっていた。彼らの多くは広島にいた頃よりも渡航地で経済的に余裕がもてるようになった。明治40年末には全国渡航者の過半数を広島県人で占めるまでになった。 一方南米最初の移民は、1899年(明治32年)ペルーへの契約移民であり、移民船佐倉丸に乗船した県民176人が渡航した。この時の人数は新潟・山口に続いて3番目に多く、全体の22%ほどであった。これに続いたため南米では当初ペルーへの移民が多かった。ブラジルは他と違い一家揃っての永住定着が推奨され、渡航費は当初サンパウロ州政府、後に日本政府が支給した。彼らは3年間コーヒー農園で契約労働し、のち土地を買って農園経営者となるのが夢だったという。ブラジルへ広島からは、1908年(明治41年)第1陣笠戸丸で42人が渡航したものの、コーヒーの実の採取という慣れない作業に加えて道具はなく収穫期もズレていたことからまともに稼ぐことができなかったため、対応に追われることになった。そのため翌1909年(明治42年)のブラジルへの渡航者はわずかだったという。その翌年1910年(明治43年)にはブラジル移民が復活、広島から約100人が渡り随時増加していった。
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