新たな移民先
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:53 UTC 版)
外交関係が樹立されたことで、日本から移民を送り出す法的な素地が出来上がったが、日本の外務省は先に起きたイタリア人移民の事案を根拠に、ブラジルへの移民を送り出すことを躊躇していた。さらに1897年8月に「吉佐移民会社」が、初の正式移民として1500人を「土佐丸」で神戸港からブラジルへ向け送り出す予定であったが、受け入れ先のブラド・ジョルダン商会が出港直前に急遽受け入れを中止する事件が起きたこともあり、その後日本政府はブラジルへ向けた移民を許可しなくなってしまった。 さらにそれまで多くの日本人移民を受け入れていたアメリカ、特にカリフォルニア州を中心とした西海岸一帯を中心に、人種差別を基にした日本人移民排斥が激しくなったために、1900年に日本政府はアメリカへの移民を制限することとなった。 その後1904年に起きた日露戦争において、日本はロシア帝国に対して勝利をおさめたものの、ロシアから賠償金を得られなかったこともあり経済は混乱し、農村の貧しさが深刻になっていた。さらにその後アメリカ政府が日本人移民の受け入れ数の制限を強化したことや、アメリカに代わる移民受け入れ先として有望視されていたオーストラリアやカナダ政府も日本人移民の受け入れを制限したことから、日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索することとなった。
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