周防大島とハワイ移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 10:22 UTC 版)
「日本ハワイ移民資料館」の記事における「周防大島とハワイ移民」の解説
江戸時代中期以降人口増加が著しかった大島郡では、島の限られた土地では生活ができず、伝統的に大工・石工・船乗りなどによる出稼ぎが盛んであった。さらにハワイ移民の話が持ち上がったころには、全国的な不況に自然災害が加わり、大島郡では人々は餓死寸前まで追い込まれていた。こうした事情を知る山口県は、大島郡からの募集に特に力を入れ、郡役所、村役場も大いに努力を傾けた。住民にとっても、ハワイでの好条件は耳よりな話であった。その結果第1回の官約移民では大島郡出身者が全体の約3分の1を占め、官約移民時代を通して約3,900人が大島郡からハワイに渡っている。かつては、「芋喰い島(いもくいじま)」と呼ばれていた大島郡は、こうして「移民の島」として知られるようになった。現在でも、周防大島の住民は、ハワイに親戚を持つ者が数多くいる。 山口県及び大島郡の官約移民年度別統計によれば、1885年(明治18年)~1894年(明治27年)の10年間で26回に亘り移民を送り出しており、全国で29,084人、うち山口県10,424人で大島郡からは、3,914人もの方がハワイへ渡っている。都道府県別では、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順である。
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