移民政策の推進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:04 UTC 版)
1894年、官約移民の廃止にあたっては私約移民体制の設置を日本政府に働きかけ、民間移民会社の認可を取り付けた。以後は日本の民間会社を通した斡旋が行われるようになった。当時は、海外移民と国内との送金業務は横浜正金銀行が独占していたが、星亨は五大移民会社(広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社)のうち主な数社の事業に関与していた。当時ホノルルで稼働していた鉄道を国内へも導入しようとした井上敬次郎の活動にも尽力した。 藩閥政治に対する批判者であったが、非藩閥の陸奥宗光からは可愛がられていたため、朝鮮政府の法務顧問や駐米公使を務める。第1次大隈内閣では、外務大臣として入閣する予定であったが、首相の大隈重信がこれを拒否したために、それが憲政党分裂の原因となった。第4次伊藤内閣において、逓信大臣などを務め、明治33年(1900年)発足の立憲政友会にも参加したことで、伊藤博文からも信頼を受けるようになる。その逞しい政治手腕から「おしとおる」と渾名された位だった。 星は、積極財政を進めて地域への利益誘導を図り、支持獲得を目指す積極主義という政治手法をとった。また、収賄などの噂も絶えなかった(ただし、本人は否定している)。そのため、日本の政党政治と利益誘導の構造、すなわち金権型政党政治を築いたとされる。 1900年11月15日、東京市会汚職事件にかんし、市参事会員星逓相らが告発され、12月20日星は辞表を提出した。12月22日後任は原敬が任命された。 日本裏面史より見れば、三多摩の村野常右衛門、森久保作蔵など「大阪事件」以降の自由党右派の壮士たちを政界に引き入れていることから、たとえ星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には、星の責も大きいと言われる。 東京市会議長であった明治34年(1901年)6月21日午後3時過ぎ、伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)により、東京市庁参事会議事室内で秘密会終了後市長・助役・参事会議員たちと懇談中、刺殺された。満51歳没。なお、所蔵していた蔵書は星光および遺族より、大正2年(1913年)に慶應義塾大学に寄贈され、「星文庫」として保管されている。
※この「移民政策の推進」の解説は、「星亨」の解説の一部です。
「移民政策の推進」を含む「星亨」の記事については、「星亨」の概要を参照ください。
- 移民政策の推進のページへのリンク