台湾国語
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台湾国語/台湾華語 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 臺灣國語・台灣國語/臺灣華語・台灣華語 |
簡体字: | 台湾国语/台湾华语 |
拼音: | Táiwān Guóyǔ |
注音符号: | ㄊㄞˊ ㄨㄢ ㄍㄨㄛˊ ㄩˇ |
発音: | タイワンクオユイ |
台湾国語(たいわんこくご、繁体字中国語: 臺灣國語)とは、中華民国の公用語である「国語(中華民国国語)」を元として台湾の独自の文化や環境に合わせて変化して誕生した言語(台湾訛りの中華民国国語)であり、現代の台湾で日常的に広く使われている言語である[1]。
台湾華語や台湾中国語ともいう。国語の普及以前から台湾で話されていた「台湾語」は、福建省の閩南語に由来する言語であり、台湾国語とは異なる。
「中華民国中央研究院・言語学研究所」の公式サイトによれば、台湾国語は「我々台湾という多民族国家の共通語であり、中華民国国語の系統の中でもっとも重要な研究対象とされている」とされている[2]。
歴史
当初、台湾人は台湾語や客家語、諸民族語を話していた。台湾人の中国語学習に関する歴史は長く、最も古い記録は清王朝の時(約1700年の頃)、中国の皇帝である雍正帝の朝廷の官僚が福建省と広東省の住民と交流しやすくするため、共通語である「官話」を住民たちに教えていたというものである。当時の台湾は福建省の下に編入されていた故に、台湾人は清王朝の官話を学んでいた。朝廷は台湾の台南県に「正音書院」という専門的な官話学校も創設したが、官話と台湾語の差があまりにも大きかったことや、ここで育成され官話を話せるようになった人も少なかったことで、教育効果はゼロに近く1750年に正音書院は創設後間もなくに閉鎖された[3]。
その後1895年に、台湾は日本統治下に置かれた。日本は中国語に関する教育を完全に廃止し、日本語教育を始めた。1945年に日本の降伏に伴って中華民国が台湾を接収した(台湾光復)。1949年に中国大陸での国共内戦で中国共産党に敗れた中国国民党率いる政権は、政府や教育機関を丸ごと台湾島に移転した。中華民国政府は台湾語も日本語も廃止し、中華民国国語を台湾の唯一の標準語とした。
元来、台湾には台湾語という独自の言葉があるが、国民党政権が中華民国国語を台湾語に取って代わる標準語としたため、台湾語を話す台湾人はどんどん少なくなった。しかし、この中華民国国語は中国大陸北部の語彙・音声・慣用語などに基づいて創られたものであり、台湾人の言語習慣に適応していなかった。大半の台湾人はこの中華民国国語をうまく話せず、正しく使えなかった。そこで、台湾人は中華民国国語に台湾語・客家語・台湾原住民の言語・日本語・オランダ語に由来する要素を取り込んで使用するようになった。約50年間を経て、台湾人にとって理解しやすい言語「台湾国語」が自然に形成されていた。台湾国語は標準中国語の一種ではあるが、大陸の中国人が使わない語彙も多く含まれている。
台湾国語の元となった「中華民国国語」の発音・声調・語彙は中華人民共和国の普通話と差異が大きくなっているが、台湾国語はさらに乖離が進行しており、普通話とは遥かに違うものとなっている。台湾国語と普通話の間での意思疎通は可能だが、台湾国語は普通話と比べると「r化音」や「軽声」の使用率が圧倒的に低い。
台湾国語と中華民国国語・普通話との比較
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台湾国語と中華民国国語の違いは具体的に、台湾国語では「ㄣ[ən]」・「ㄥ[əŋ]」などの発音が全く区別されないことが挙げられる。中国語母語話者なら、台湾国語・中華民国国語・普通話の3種類の中国語の違いを聞き分けることができるほどに差が大きいため、意思疎通に難がある場合もある。かつては台湾のテレビ放送では主に中華民国国語を使用していたが、現在では台湾本土化運動の強まりにより、台湾国語が使用されるようになっている。
台湾国語は中華民国国語の台湾訛りであり、台北弁・台中弁・台南弁・台東弁など、地域ごとにさらに細かく分けることができる。
また、現在の中国(中華人民共和国)は、台湾を独立した国家として認めていないため、「国」の文字を避けて、台湾国語のことを「台湾訛りの中国語」と呼んでいる。
- 発音の違い
- 難発音
- 旧来(統治時代)使用されていた日本語や元来の台湾語にない音は、普通話とは異なって発音されることが多い。特にそり舌音をあまり使用しない話者が多い。
- 母音(非正式)
- b、p、m、fの後ろに来るeng → ong 例:碰 pèng → pòng
- 子音(非正式)
- f → h 例:飯 fàn → huàn
- zh (ㄓ) → z (ㄗ) 例:中 zhōng → zōng
- ch (ㄔ) → c (ㄘ) 例:吃 chī → cī
- sh (ㄕ) → s (ㄙ) 例:是 shì → sì
- r (ㄖ) → z (ㄗ)/l (ㄌ) 例:日本人 Rìběnrén → Zìběnlén
- aの発音
- 一般に台湾の国語の発音の方が北京の発音よりも顎の開きが狭い。
- r化の有無(北京音。「r」を発音しない。)
- 例:玩 '遊ぶ' 普通話(北京音)…wánr 普通話(標準音)…wán 国語…wán
- 軽声化の有無
- 例:沒關係 '関係ない' 普通話…méi guānxi 国語…méi guānxì
- 字音の異同
- 難発音
- 語彙の違い
文法
国語と普通話では、反復疑問文の様式、二重目的語の構文など、語順が幾通りかあり得る場合において、好まれる語順の傾向差がある。
脚注
- ^ “《重編國語辭典修訂本》「臺灣國語」條目,教育部國語推行委員會編纂,中華民國教育部”. 2015年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月7日閲覧。
- ^ 《本所簡介》,中央研究院語言學研究所 アーカイブ 2009年4月27日 - ウェイバックマシン Archived 2009-04-27 at the Wayback Machine.
- ^ 許極燉 (1993). “多彩多妥的語言”. 尋找台灣新座標. 台北: 自立晚報社文化出版部. pp. 62–64. オリジナルの2019-06-04時点におけるアーカイブ。 2020年1月12日閲覧。
国語 (中国語)
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国語 |
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國語 中華民國國語 |
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発音 | IPA: /ku̯ɔ˧˥ y˨˩˦/ |
話される国 | ![]() |
地域 | 台湾地区 および海外華人の一部 |
話者数 | — |
言語系統 | |
公的地位 | |
公用語 | ![]() |
統制機関 | 中華民国教育部終身教育司第四科 (旧:教育部国語推行委員会) |
言語コード | |
ISO 639-1 | zh |
ISO 639-2 | chi (B) zho (T) |
ISO 639-3 | cmn |
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2010年台湾地区各郷鎮市区の人口中、6歳以上の人が家庭でその言語を使う割合(複数選択可)。
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国語 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 國語 |
簡体字: | 国语 |
拼音: | Guóyǔ |
注音符号: | ㄍㄨㄛˊ ㄩˇ |
発音: | クオユイ |
国語(こくご、繁体字: 國語; 拼音: Guóyǔ; 注音: ㄍㄨㄛˊ ㄩˇ)は、中華民国が公用語として普及を進めた標準中国語である。中華民国国語(ちゅうかみんこくこくご、繁体字: 中華民國國語; 拼音: Zhōnghuá Mínguó Guóyǔ; 注音: ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄇㄧㄣˊ ㄍㄨㄛˊ ㄍㄨㄛˊ ㄩˇ)と呼称、表記される場合もある。中華民国が中国大陸を統治していた時期に、国語運動を通じて規範が整えられた。
概要
中華民国の公用語として定められた国語は、清代に共通語として使用された官話を中心に、北京語・南京語などの中国各地の言語要素を組み合わせて生み出されたものである。
中華人民共和国が河北省の方言に基づく新たな標準語として普通話を定めた一方、台湾に移った中華民国政府は中華民国国語を用い続けた。中華民国政府はその正統性を示すため、中華民国国語以外の言語を抑圧する政策を採っていた。
中華民国国語と普通話は、どちらも中国の標準語(標準中国語)として位置づけられており、相互に理解可能であるが、中華民国国語は普通話と比べて「r化音」や「軽声」の使用頻度が低いなどの相違点がある。最も顕著な相違点は文字体系である。普通話は簡体字で記述され、発音の表記には拼音が用いられるが、中華民国国語は繁体字で記述され、発音の表記に注音符号が用いられる。
現在の台湾で一般的に使用されている、台湾訛りの国語(台湾語などの要素が含まれている)は「台湾国語」と呼ばれている。
普通話との具体的な違い

英語では、「大陸の普通話」も「台湾の国語」も同じ標準中国語とみなされ、どちらのこともマンダリンと呼んで、区別していない。しかし、台湾人自身は英語で会話をする際に、自分が話す中国語を「Standard Mandarin」や「Chinese Mandarin」と呼ぶことが極端に少なく、殆どの人は「Taiwanese Mandarin」と言う。
ただし、中華民国国語には、大陸の普通話とは異なる次のような点がある。
- アル化を極力使わない。
- 軽声をあまり使わない。
- 一部の漢字の発音が違う。例:微(普通話:wēi、国語:wéi)、携/攜(普通話:xié、国語:xī)、垃圾(普通話:lājī、国語:lèsè)
- 特に科学用語や歴史用語など、普通話と違う語彙を使用することもある。例:ケイ素(普通話:硅、国語:矽)、郵便配達員(普通話:邮递员、国語:郵差)、淮海戦役(普通話:淮海战役、国語:徐蚌會戰)
- 日本式語彙を、大陸とは差別的に流用する。台湾では、日本との頻繁な交流によって、いち早く日本と共通語彙を使う傾向がある。ただし、近年は大陸が先に使い始めた日本式語彙を台湾では使わないことがある。例:便當(弁当、普通話:盒饭)、坪(坪、中国大陸ではこの単位を使わない)
また、以下のようなものは、教育の場では正しいものと見なされないが、話者に福建省からの移民の末裔が多いことにより日常生活上では頻繁に遭遇する。
- そり舌音(捲舌音)が不明瞭である。
- 唇歯音 fを無声声門摩擦音 hと発音する(台湾語に存在しない発音)。
- 過去形(肯定・強調)表現に「有+(動詞)」を使用することがある(台湾語由来)。
- 次のような揚子江以北には存在しない語気助詞を多用する。
- 「―囉」(―lo : ―じゃん)
- 「―哦」(―wo :―だよ)
- 「―唷」(―yo :―よ)
- yo が日本語の影響によるものか福建語由来かは不明。
香港を含めた東南アジアの中国人系社会では、北京語を話す時は今でも中華民国国語に近いマンダリンを話す。これは、台湾の大衆娯楽やメディアの影響力、政治的・地縁的要素にもよる。
国語推進の歴史
中国大陸における「国語」
標準中国語を指して初めて「国語」という語を使ったのは清末の呉汝綸であるとされる。呉は1902年に日本を視察し、明治維新後の日本の国語統一政策に感銘を受け、帰国後北京官話を標準とする国語を実施するよう管学大臣・張百熙に意見書を送った。1909年に江謙が官話の名を国語に改めるよう提案し、国語編審委員会が設置された。1911年には国語の統一基準作りのために調査研究を行うとする「統一国語弁法案」が通過した。
1912年に中華民国が成立すると、翌1913年2月に漢字の読みを国で定めるため読音統一会が招集された。この会議は江蘇省・浙江省出身の学者が多数を占めており、この地方の呉語に見られる濁音を取り入れるかどうかが焦点の一つとなった。北京官話を標準にすることを主張する王照が一省一票を提案したことにより濁音は外され、6500余りの漢字について「国音」が議決された。これを後に老国音という。この老国音は、特定の地方の発音を採用するものではなく、各地の発音を折衷して定めた人為的なものであり、伝統的な「正音」に近い。1919年には、老国音による『国音字典』初印本が出版された。
読音統一会では国音を検討する際、章炳麟の創製した文字に手を加えたものを使った。教育部の職員として関わった魯迅らの提案により、この文字を国音を表す正式な文字とすることが決まった。後に注音符号と改称される注音字母である。保守派の反対や政局の影響を受け、教育部が正式に注音字母を公布するのは5年後の1918年11月25日にずれ込んだ。
1917年に胡適が雑誌『新青年』に発表した「文学改良
1919年、政府は教育部の下に「国語統一
同年五四運動が起こると、それまでの教育関係者の要求に沿って、国民学校の「国文」科を「国語」科に改め、最初に注音字母を教えることとなった。翌1920年には小学教科書が白話文に改められた。教育部が開いた国語講習所をはじめとした訓練養成機関により、国語教育に当たる人材の育成を図った。
『国音字典』初印本出版後、老国音と北京音の食い違いから、北京音の全面的採用を求める議論が国語研究会を中心に起こった。1923年に国語統一籌備会は「国音字典増修委員会」を設置し、翌1924年北京語音を標準とすることを決めた。新たな標準は1932年発行の『国音常用字彙』にまとめられた。これを「新国音」または「京音」と呼ぶ。『国音常用字彙』は、9920字のほか、異体字1179字・異読字1120字、合計1万2219字を収め、現代中国語の標準音を示した最初の字書であり、漢字の発音だけでなく、字種・字体の整理という面からも大きな役割を果たした。
1925年から1926年まで国語統一籌備会国語羅馬字拼音研究委員会で進められた検討を経て、1928年に「国語ローマ字」が公布された。複雑なため普及はあまり進まなかったものの、中国史上初めて政府が定めた公式のローマ字表記法である。
国語統一籌備会には辞典編纂部門が附属しており、1923年に国語辞典編纂処として設立され、1928年に拡充され中国大辞典編纂処となった。1931年に『国語辞典』の編集に着手し、1945年に全4巻がそろった。
1937年の盧溝橋事件以降、日中戦争により国語推行委員会の活動は停滞を余儀なくされた。1945年、戦争が終結すると、中国大辞典編纂処は出版物の刊行を続けた。中国大陸を中国共産党が実効支配下に収め、1949年に中華人民共和国が成立すると、国語推行委員会は設けられず、中国大辞典編纂処が部分的に中国科学院語言研究所(後の中国社会科学院語言研究所)や中国文字改革委員会(後の国家語言工作委員会)に組み入れられた。以降、中国大陸では普通話が標準語として整備され、その推進普及が国是として図られている。
台湾における「国語」
中華民国が台湾を編入すると、1946年に台湾省国語推行委員会が設置され台湾で国語運動が始まる。中華民国政府は台湾移転後も、教育部国語推行委員会を維持し、国語普及や標準の整理、字典の編纂といった事業を行った。台湾では13年ほどで国語の普及を見た。この時期の台湾における国語運動の主要な目的として、脱日本化が挙げられる。当初は台湾語など国語以外の「方言」を土台として国語の普及が図られたが、次第に方言に対して抑圧的な政策が実施されるようになった。1960年代後期になると、中華文化復興運動を受けて台湾省政府は「臺灣省加強推行國語實施計劃(台湾省国語推進強化実施計画)」を制定し官公庁、学校など公共の場所では一律に国語を使うことを義務付け、方言の使用を禁じた。1976年の廣播電視法(放送法)第20条は「播音語言應以國語為主,方言應逐年減少(放送言語は国語を主としなければならず、方言は毎年減らさなければならない)」と定めた。1985年には「語文法(言語法)」草案が完成した。3人以上の人がいる公の場で標準的な国語の使用を義務付け、方言の使用に罰則を設けるなどの内容に世論が猛反発した結果、立法計画から取り下げられた。この法案は国民党政権の一元的な国語推進政策の頂点とも評価される。
1986年の民主進歩党結党、1987年の戒厳令解除、1988年の李登輝総統就任など、政治面での台湾本土化・民主化が進むと、文化面でも台湾本土化、多文化主義への転換が図られた。一元的な国語推進策は再検討を迫られ、その結果、学校における方言使用への罰則の廃止、国語以外の言葉による放送に対する制限の撤廃、母語教育あるいは郷土言語教育の導入などが実施された。
参考文献
- 《中国大百科全书 语言 文字》北京:中国大百科全书出版社,1988年
- 周有光著《中国语言的时代演进》北京:清华大学出版社,1997年
- 武田雅哉著『蒼頡たちの宴』筑摩書房、1994年(ちくま学芸文庫、1998年)
- 黃宣範著《語言、社會與族群意識:台灣語言社會學的研究》台北:文鶴出版有限公司,1995年
- 菅野敦志「台湾における「本土化」と言語政策 : 単一言語主義から郷土言語教育へ」『アジア太平洋討究』第12巻、早稲田大学アジア太平洋研究センター、2009年3月、223-249頁、CRID 1050282677458920320、 hdl:2065/29745、 ISSN 1347-149X。
- 中川仁『戦後台湾の言語政策 : 北京語同化政策と多言語主義』東方書店、2009年。 ISBN 9784497209061。国立国会図書館書誌ID: 000010085161 。
脚注
関連項目
外部リンク
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