労働運動の動向と勢力拡大
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「日本社会主義青年同盟」の記事における「労働運動の動向と勢力拡大」の解説
10回大会以降、向坂派系指導部による全国的な同盟員再登録運動と地本再建が行われ、解放派、第四インター、太田派の別組織化によって同盟員数は一時的に減少した。しかし、1970年代前半の国鉄や郵政での反マル生(生産性向上運動)闘争や、同盟系労組も含めた春闘の高揚のなかで、急速に組織拡大が進められていった。1973年に福島の電電公社の労働者が頸肩腕症候群に悩んで入水自殺したことから、労働者を犠牲にした資本の利潤追求を告発し、「生命と権利」を守る視点から反合理化闘争を再強化しようとの呼びかけが行われたことも、労働強化に悩む青年の心を急速に捉えていった。また、学生同盟員も1970年代を通じて増大し、学生運動出身の同盟員が官公労、民間など各地の職場に配置されていった。こうして、1973年暮れの12回大会時には、社青同は結成以来最大の組織人員数を抱えるに至った。第12回大会では「生命と権利のたたかい」が正式に社青同の路線になるとともに、結成時以来の綱領・規約が全面改正された。委員長には山崎耕一郎が選出された。国際的には、チリのアジェンデ政権の成立、ベトナム戦争におけるベトナム人民の闘いの前進と、これと結びついたベトナム反戦闘争や沖縄闘争の高揚も当時の青年に社会主義運動への展望を与え、社青同の組織拡大へと結びついた。中でも、北海道、東京、千葉、兵庫、広島などの地本が大きな力を持った。 74年にマイナス成長を記録し、高度経済成長は終焉を迎えた。こうしたなか、74年春闘では、オイルショックによるインフレーションを背景に、労働組合側は30%を超える賃上げを獲得した。この労働運動や反戦運動の高揚のなか、政治の世界においては、国政での保革伯仲、革新自治体の増大など、日本資本主義は大きな危機を迎えた。こうした事態の「正常化」のために、「対話と協調」を唱える三木武夫内閣が登場し、企業・職場では「不況・赤字」宣伝によって労働運動の労使協調化が図られていった。こうしたなか、社会主義協会・社青同の階級闘争路線やその影響下にある青年活動家群は、資本・経営者だけでなく、一部の労働組合にとっても排除すべき対象となっていった。職場を「社会の安定帯」としたい資本・経営者側にとっては、街頭での警察を相手とした示威行動や、党派間の内ゲバに明け暮れていた新左翼よりも、労資対立の非和解性を主張しながら職場・生産点で活動し、労働組合で勢力拡大を図る社青同の方が、直接に危険な存在だったと言えよう。全電通における「協会規制」に象徴される労働運動内の左派抑え込みの動きは、民間労組においては労資協調の第二組合の結成と、第一組合の孤立・少数化という形で急速に拡大していった。労働運動全体でも、「生産性基準原理」を主張する資本・経営者によって「雇用か賃上げか」を迫られた労働組合が労資協調路線へと転換していくなかで、80年代には連合結成、総評解体という労働戦線再編が進められていった。社青同もこの労戦再編に反対したが、その流れは止められなかった。こうして、80年代の社青同は、国鉄分割民営化反対闘争や反核運動の高揚のなかで同盟員の拡大こそ進んでいたが、総評解散の流れのなかで一部を除いて労働組合との公式な関係は絶たれていくことになった。
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