労働運動と白豪主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 23:27 UTC 版)
大陸への入植者は、初期は白人、それもイギリスからの移民(主として流刑者)がほとんどであったが、1833年にイギリス帝国が奴隷制を廃止したため、各植民地では労働力が不足する。阿片戦争とアロー戦争(第二次阿片戦争)を経て1860年に締結された北京条約で、イギリスや海外の商社が中国人を雇用する権利を承認させたことで、合法的にオーストラリア、アメリカ、カナダに中国人を入植させることができた。また太平天国の乱の影響もあり、オーストラリアには中国系の移民労働者が相次ぐようになる(多くは広東人)。1861年で約39000人(総人口134万8100人のうち2.9%)で、1854年から1858年の5年間では45000人が流入する。北京条約締結同年にニューサウスウェールズ州で反中暴動(Lambing Flat Riots)が起こった。 また、1851年に金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まる。1870年代にはクイーンズランドで、1890年代には西オーストラリアで金鉱が発見され、中国人労働者(苦力)が大陸全土に広がった。それにともなって1870年代以降、中国人をはじめとする外国人労働者に対する労働運動が激化する。地方都市では、アジア系外国人労働者による白人労働者の労働機会の縮小と賃金水準の低下、環境衛生の悪化の原因された。そのため労働環境改善を求める労働運動が白豪主義の圧力団体となっていく。1878年には中国人船員の雇用に対して船員組合がストライキを敢行した。1888年には中国人移住制限法が制定される。1892年にも運送業者組合が大規模な抗議運動を展開した。一方、資本側・経営側は中国人労働者は低コストの労働力となったため、白豪主義に反対していた。農園主らは主に都市部で発生していた移民(中国人)労働者への制限を求めた労働運動に対して、ノーザンテリトリーやクイーンズランドからアジア人を撤退させたら荒れ地になると反論したが、移民制限は法制化されていく。労働運動が激化する中、各地で労働党が形成される。労働党の基本イデオロギーは白豪主義と社会主義であった。また反権威主義や反エリート主義を掲げ、イギリスからの独立を掲げてもいた。 また1863年、ノーザンテリトリーが南オーストラリア植民地として編入されると、南オーストラリアは当初日本人を入植させる計画を採り、日本からも真珠貝採取や砂糖農園における技術系労働者が流入した。1898年のクイーンズランドで就労していた日本人は3274人に上った。しかし外国人労働者への排斥運動のあおりを受けて、日本の移住希望者にも「ヨーロッパ言語による書き取りテスト」を課して実質的に流入を阻むようになっていった。
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