労働運動から政界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:43 UTC 版)
失業した米窪は、しばらく神戸で徒食の生活を送るが、海上労働者の待遇改善要求の運動に身を投じる。また、草創期の労働界も船長として国際航路で活躍し、文筆で海運業界の内幕を批判した米窪を見逃さなかった。1919年(大正8年)ILO(国際労働機関)日本代表として鈴木文治らとともに国際会議に出席する。1921年(大正10年)日本海員組合の組合長楢崎猪太郎により、組合機関紙「海員」の編集部長に迎えられる。以後、庶務部長、国際部長を経て、副組合長に選出される。米窪の入会は海員組合に歓迎され、楢崎組合長をはじめ、米窪に対しては敬意を払い「さん」づけで呼んだという。また、米窪も期待に応え、組合に関係する対外的交渉を一手に引き受けた。米窪は総同盟の松岡駒吉に対して労働組合運動の一本化を提唱し、日本労働倶楽部として大同団結を実現した。米窪は書記長に選出される。日本労働倶楽部は、日本労働組合会議となるが、1940年(昭和15年)に解散を命ぜられるまで米窪は書記長として活躍した。 国際労働運動では、1928年(昭和3年)第11回国際労働会議日本代表として出席する。米窪は、長い船員生活を通じて英語に堪能であり、通訳なしで各国代表と渡り合うことができた。ジュネーヴで開かれた労働会議で議長のアルベール・トーマから記念に開会を告げる槌が贈呈されたが、この槌に刻まれた「汝平和を欲すれば正義を耕せ」という銘を後に好んで揮毫した。 1928年(昭和3年)日本最初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区より社会民衆党から立候補する。社会民衆党などの無産政党からは、米窪など82名の候補者が立候補したが、当選したのはわずか8名で、米窪も落選した。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙にも立候補したが落選。1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙では、前2回の選挙で無産政党が分立し、互いの票を奪い合う結果になった反省に立って、候補者を30名に絞込み、社会民衆党と労農大衆党は、合同し社会大衆党を結成した。この選挙で米窪は初当選し、社会大衆党は37名の当選者を獲得した。1940年(昭和15年)2月2日衆議院において、斎藤隆夫が行った反軍演説と斎藤の除名を契機に米窪、安部磯雄、片山哲、西尾末広、水谷長三郎らは、勤労国民党を結成するが、内務省から結社禁止処分を受ける。1942年(昭和17年)「翼賛選挙」として悪名高い第21回衆議院議員総選挙で非推薦で立候補、落選を余儀なくされる。
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