移住制限法(1901年)
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「白豪主義」の記事における「移住制限法(1901年)」の解説
1901年にオーストラリアは連邦制となり、同時に移住制限法、帰化法、太平洋諸島労働者法等を成立させ、白豪主義政策が完成していく。連邦政府の最大の問題が移民労働者問題であった。しかし1902年の日英同盟に帰結する英国の対日政策においては、ロシア帝国南下からの防衛という意味でも、日本が地政的に重要であったため、英植民地相のジョセフ・チェンバレンは豪連邦初代首相エドマンド・バートンに対して、極東の情勢を配慮することを秘密書簡で要求した。日本政府はすでに移住制限法に対し、ロンドンとシドニーの在外公館を通じて抗議を行っていた。しかし白豪主義の強硬論が豪議会でも根強く、当時の代表的な白豪主義の論客で、のち第2代首相にもなったアルフレッド・ディーキンは「日本人は優秀であるがゆえに危険であり、排除されねばならない」として、バートンの対日政策を撤回させた。以降、日英同盟が破棄されるまでの約20年間、オーストラリアはイギリスと日本との間に摩擦を持つことになった。日英同盟は安全保障、貿易の観点から歓迎されるべきだとバートン首相はメルボルンの日刊紙『エイジ』(1902年2月14日)にコメントを寄せ、しかし白豪政策は堅持する、とした。これに対し大衆紙『ブレティン』は「英帝国が白いヨーロッパ(ロシア)に対抗する目的で有色国家と同盟を締結することはきわめて不名誉である」とした。『ブレティン』紙の白人至上主義は世論形成にその後まで相当の影響を与え続けた。 日露戦争の間には反ロシア感情から親日論が台頭し、1904年には日豪パスポート協定が結ばれるが、のちにイギリスがドイツ帝国との対立関係を深めて行く中、日本とドイツの同盟のシナリオが想定され、日本脅威論が復活していく。第一次世界大戦でドイツ領であった赤道以北の南洋群島を日本が占領すると、ドイツよりも危険な存在と認識されるようになった。こうして、白豪主義的体制が確立されていき、1940年頃にその有色人種の国内人口に占める割合は最も小さくなった。第二次世界大戦中にはアメリカの黒人部隊の上陸を拒否したほどである。
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