移住の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 03:16 UTC 版)
1864年春、下士官のゲラシモフ・ミハイル・ナウモビッチと4人の兵士からなる、軍事水路学の役職がアスターフィエフ岬(ロシア語版)に設けられ、1860年代末には30人にまで増やされた。彼ら水路学者たちは毎日気象観測を行い、日誌に記録していた。 1864年8月、ニコラエフスク・ナ・アムーレからナホトカに移住した9つの家族と7人の独身者は、サハリンでの重労働ののちに釈放され、そのうち17人がスチャン川上流でアレクサンドロフカ集落を設けた。4家族は軍事基地のそばで定住した。1865年春、アムール川からナホトカに農民26人が移住した。彼らは8月までナホトカで暮らし、そのあとスチャン川に移住、ウラジミフカ集落を設けた。1865年5月3日、彼らがナホトカで暮らしていたとき、彼らの1人が産んだ息子のイヴァン・エフィーモビッチ・クラーエフが、最初のナホトカっ子となった。 1867年11月13日、アスターフィエフ岬の対岸に、シベリア封土部(ロシア語版)の管理の下、貿易部が設けられた。貿易部の職員は、貿易部長ハラルト・フルゲリム(ロシア語版)、書記官ニコライ・キリュコフ、測量技師イヴァン・シーシキン、医師アレクサンドル・クンツェ(沿海州初の医師)などであった。 1868年4月30日、フィンランドからの移住者が蒸気船「ナホトカ」で到着した。1869年6月、測量技師のシーシキンは商館の建設計画を作成した。集落には15軒の店、バーニャ、桟橋、倉庫、鍛冶場、製粉所、製材所があった。建設資材の輸送は貿易部長の管理の指揮の下、蒸気船「ナホトカ」が行った。1870年4月にこの船は沈没し、商館は海上の定期連絡便を失った。1871年4月6日にナホトカでハラルト・フルゲリム(ロシア語版)が怪我で亡くなった。1873年5月25日、商館の財産が目録に記録され、封土部職員はペテルブルクに向かった。民間人はアムバ川(ロシア語版)とウラジオストクに移住した。商館は無人となった。 ナホトカ湾の畔にあった商館・軍事基地・最初の集落の正確な場所は分かっていない。
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