ポーゼン/ポズナン公国における文化闘争
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「文化闘争」の記事における「ポーゼン/ポズナン公国における文化闘争」の解説
文化闘争は特にプロイセンのうちのポーランド人居住地域に大きな衝撃をもたらした。この時期ポーランドは国家として消滅しており、オーストリア帝国、プロイセン王国(プロイセン王国は後にドイツ帝国の一部となった)、ロシア帝国の3つによって分割されていた。かつてポーランド・リトアニア共和国だった領域における広範なドイツ化運動は、カトリック教会や(カトリックが主流の)南ドイツの国々に対する闘争と同時に始まった。このためヨーロッパ修史の分野では、文化闘争の反カトリック的要素は通常ドイツ帝国内における(言語や文化を含む)ドイツ化運動と不可分と捉えられる。 「五月法」が成立すると、プロイセン王国の当局はポーランド語を教える学校の大半の閉鎖を開始した。代わりにドイツ語を教える学校設置が進められた。1872年11月にファルクは布告を出し、翌年の春までに学校における全ての宗教教育はドイツ語で行われるようにした。カトリック教徒のポーランド人と聖職者から起こった抵抗運動は翌年までに抑えられた。このときポズナンとグニェズノのカトリック神学校が閉鎖された。国家は以前は教会が後援していた学校における教育監督権を取り上げた。カトリック教会の財産は没収され、各修道会は解散させられた。カトリック教会の自由を保証していたプロイセン王国憲法の条項は削除された。他の地域と比較してポーゼン地方(現ヴィエルコポルスカ地方)における文化闘争ははるかに強い民族主義的性格を帯びていた。 その後まもなく、プロイセン王国当局はさらなる抑圧政策を行った。185人の司祭が拘留され、数百人が国外亡命を余儀なくされた。ポーランド首座大司教ミェチスワフ・レドゥホフスキも拘留された。残りのカトリック司祭たちの大多数は当局に隠れて礼拝を行わなければならなかった。拘留された聖職者のうちのほとんどは1870年代の終わりごろまでに釈放されたが、そのうちの多数は国外亡命をさせられた。第三者の多くはこういった反カトリック的・反ポーランド的政策はかえってポーランドの独立運動を助長するものだと考えた。文化闘争を追求するビスマルクの動機には、ポーランド人に対する個人的反感があったかもしれない。ドイツ帝国の他の地域とは対照的に、ヴィエルコポルスカ地方(当時はポーゼン地方と呼ばれていた)における文化闘争は1880年代になっても終わることがなかった。ビスマルクは社会主義者に対抗するためにカトリック教会との連携に非公式な署名をしたが、ドイツ帝国内におけるポーランド人居住地域ではドイツ化政策は続けられた。 1886年になると、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの作った標語「ドイツの土地のスラヴ人根絶」に沿って、プロイセン王国政府当局は領内のポーランドにおける新しいドイツ化政策を準備した。この政策の立案者であったハインリヒ・ティーデマンによると、以前に行われていたポーゼン地方へのドイツ人移住の試みが失敗した理由は、それらのドイツ人が「移住に対する正当性の確信が持てず、移住先で自らを異邦人と考えた」からであるとされた。ティーデマンによる解決法は、行政手段によって土地の取得を促進することと同時に、移住するドイツ人に対して移住先の社会生活や土地からポーランド人を追い出すことは正しいことなのだと納得させることであった。国家の管理下にあった「定住委員会 (Ansiedlungskommission)」はポーランド人から土地や財産を強制的に買い上げ、ドイツ人に安く払い下げた。この政策によって22,000家族がポーランドに移住したが、住民全体におけるポーランド人の占める割合は変化しなかった。「ドイツ東部委員会」(Deutscher Ostmarkenverein) も同様な活動をしたがほとんど成功しなかった。それに対して、文化闘争で行われたドイツ人の諸活動はポーランド人の民族意識を呼び起こし、ドイツ人がポーランドの文化や経済に対抗するために創設した各組織と酷似した対抗的民族主義組織がポーランド人によって創設されることになった。1904年までポーランド人農家が新しく家を建てることを禁止した法律が施行されていたが、ポーランド人の民族意識は非常に強かったため国内で不穏な状態が続くことになった。フジェシニァの学校児童による抗議行動やミハウ・ドゥジマワによる闘争は象徴的な出来事である。ドゥジマワは家を建てる代わりにサーカス団の使うような荷馬車に住むことで法律の規制をうまく回避して自らの抗議行動が衆目を集めるように図った(ドゥジマワのバン)。 大体においてポーゼン地方におけるドイツ化政策は失敗した。ポーランド人に反することを狙った行政手段はその多くが1918年まで採られていたが、1912年から1914年までの間ではポーランド人所有の土地はたった4つしか収用されなかった。一方この時期にはポーランド人の社会組織はドイツ人の商業組織にうまく対抗し、ドイツ人から土地を買い上げるまでになった。この地域におけるポーランド人とドイツ人との間の長い抗争は、全てのポーランドでの民族意識を発展させた。これはポーランドのほかの地域における自己意識とは異なっており、社会主義的でなく主に民族主義的な概念と関連していた。この民族意識は20世紀になってポーランドの他の地域にも広がっていった。
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