前身会社時代
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「近畿東海放送」および「ラジオ東海」も参照 1953年(昭和28年)10月15日 - 株式会社ラジオ三重(RMC)設立。 1954年(昭和29年)11月18日 - (旧)岐阜放送株式会社(GHK)設立。 1956年(昭和31年)10月1日 - (旧)岐阜放送株式会社が商号を株式会社ラジオ東海(RTC)に変更。 12月10日 - 株式会社ラジオ三重が商号を近畿東海放送株式会社(KTB)に変更。 1958年(昭和33年)2月1日 - 近畿東海放送株式会社と株式会社ラジオ東海が合弁で新東海テレビ放送株式会社(現 東海テレビ放送)を設立。 1959年(昭和34年)2月18日 - 近畿東海放送株式会社及び株式会社ラジオ東海が共同で名古屋市に新ラジオ局の免許を申請。 6月1日 - 郵政省(当時)、現行のラジオ2放送局を廃止することを条件に新局の設置を認可。 6月8日 - 郵政省の意向を受け、近畿東海放送とラジオ東海の両社が緊急役員会を開き、両社の合併を決議し、合併契約書に調印する。 9月26日 - 名古屋局の予備免許取得。
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前身会社時代
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1910年(明治43年)12月、能登半島最初の電気事業者として鹿島郡七尾町(現・七尾市)にて七尾電気(後の能登電気、能州電気とは無関係)が開業した。次いで半島北部の鳳至郡輪島町(現・輪島市)においても1912年(明治45年)3月、輪島電気が開業する。 後の能州電気に関係するところでは、鹿島郡中島村の人物を代表者として、1911年(明治44年)11月15日端村の和倉に和倉電気が、翌1912年2月2日中島村に中島電灯がそれぞれ設立された。そして1912年(大正元年)9月23日中島電灯、同年10月30日和倉電気の順で開業に至る。供給区域は、中島電灯は中島村と隣の熊木村の一部、和倉電気は端村字和倉のみ、といずれも小規模事業であった。また電源は、ガス発生装置(燃料を不完全燃焼させて燃料ガスを発生させる)と燃料ガスを吸入して作動するガス機関を組み合わせた吸入式ガス発動機を利用し、小型の直流発電機を動かすという仕組みの、小規模な火力発電所をそれぞれ構えていた。 続いて1914年(大正3年)7月26日、小松電気能登支社が同種の吸入式ガス機関と三相交流発電機を組み合わせた火力発電所を電源として開業した。支社所在地は半島先端部の珠洲郡木郎村(現・鳳珠郡能登町)。小松電気は社名の通り小松市の電力会社であるが、小松以外にも複数支社を構えて事業を行っていた。供給区域は鳳至郡宇出津町から木郎村を経て蛸島村(現・珠洲市)に至る範囲の海岸線沿い計9町村である。 1915年(大正4年)12月30日、鳳至郡穴水町に穴水水力電気が設立され、1917年(大正6年)9月4日に能登半島で初めての水力発電事業者として開業した。地元菓子店の女婿であった名古屋の電気技術者が設計にあたって山王川に出力31キロワットという小発電所が建設されたが、水路建設の経験不足のため設計通りの出力が出ず、火力発電設備で補わざるを得なかったという。また羽咋郡富来村(現・志賀町)では、近隣の電気事業に刺激され乗合自動車を営業していた礒又三郎らにより1917年2月26日富来電気が設立された。同社は7月5日、吸入式ガス発動機による火力発電所を電源として開業した。この2社の供給区域は、穴水水力電気が穴水町と中居村・南北村、富来電気が富来町と周辺10村であった。
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前身会社時代
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能登半島で最初の電気事業者は、鹿島郡七尾町(現・七尾市)にて1910年(明治43年)に開業した七尾電気株式会社である。同社は地元の津田嘉一郎・湯川温之らによって1909年(明治42年)3月に発起され、1910年3月に創立総会が開かれて発足した。株式募集に際して大阪市の実業家才賀藤吉がその多くを出資したことから才賀が社長に推され、地元からは湯川が専務取締役に就いた。開業は1910年12月5日。 七尾電気は当初、燃料を不完全燃焼させて燃料ガスを発生させるガス発生装置と、その燃料ガスを吸入して作動するガス機関を組み合わせた吸入式ガス発動機を原動機とする、小規模な火力発電所を電源としていた。しかし故障が多発するため、七尾港にあった硫酸肥料工場と交渉し、1912年(明治45年)より工場構内に発電所を移設した。移設後の設備はボイラー・蒸気機関と出力75キロワットの三相交流発電機である。同年6月からは西湊村・石崎村・端村・田鶴浜村にも供給区域が拡大した。 七尾電気に続き、能登半島では鳳至郡輪島町(現・輪島市)で1912年3月12日に輪島電気株式会社が開業した。同社は名古屋市の電気工事業者が地元有志に勧誘して1911年(明治44年)4月に設立。吸入式ガス発動機を原動機とする出力75キロワットの発電所を電源とした。小火力発電ではあるが、1912年10月から電灯供給に加え動力用電力供給も開始した。電力供給先の多くは、地場産業輪島塗の木地業者であった。 1912年下期以降は、後に能登電気ではなく能州電気へ統合される中島電灯・和倉電気なども開業する。能登電気に関係するところでは、1914年(大正3年)5月に羽咋郡羽咋町(現・羽咋市)にて地元資本で羽咋電気が設立され、翌1915年(大正4年)6月13日に石動電気からの受電を元に開業した。次いで1916年(大正5年)1月に羽咋郡志雄村(現・宝達志水町)で志雄電気が設立され、同年10月14日、これも石動電気からの受電により開業した。さらに1918年(大正7年)8月に羽咋郡高浜町(現・志賀町)で高浜電気が設立され、翌1919年(大正8年)4月15日に開業している。 一方七尾電気では、1916年に地元七尾の実業家樋爪譲太郎が才賀系の松阪水力電気から持株を買い取り、新たに社長となった。樋爪は輪島電気で専務として経営にあたる新田與一を引き抜き、七尾電気の専務としている。翌1917年(大正6年)1月、金沢市の金沢電気瓦斯との間で受電契約を締結する。この受電転換により供給力が75キロワットから400キロワットへと大幅に拡大した。また石動電気と交渉し、同社との競願となっていた供給区域を七尾電気が獲得する代わりに、七尾電気の増資新株の半額を石動電気に割り当てることになった。
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