初土俵〜大関
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1996年3月場所において幕下付出で初土俵を踏んだ。部屋では武蔵丸や武双山といった稽古相手に恵まれ、本人が「大学の4年間よりプロに入っての半年の方が伸びた」というとおり、番付を駆け上がっていった。立合いからの出足はプロ入り以降武蔵川の厳しい指導によって鍛えられたものであり、入門前は寧ろ学生相撲出身者にありがちな立合いの甘さがあった。入門から半年の同年9月場所に初土俵から3場所で十両に昇進し、十両も3場所で通過して1997年3月場所に新入幕を果たした。ここまで負け越し知らずの出世だった。 新入幕の場所はいきなり11勝4敗の好成績を挙げ、敢闘賞と技能賞を同時に獲得する。翌5月場所は7勝8敗に終わり大相撲で初めて負け越したものの、同年9月場所では前頭筆頭の地位で、当時二人横綱の貴乃花・曙を下し、2個の金星を獲得するなどの大活躍で2横綱1大関に勝ち11勝4敗の成績を挙げ、翌11月場所は小結を飛び越えて関脇に昇進した。この頃はまだ大銀杏すら結えていなかったが、次第に次期大関候補と注目され始めた。しかし、その11月場所7日目、大学の先輩・玉春日との取組で土俵際まで追い詰めた際に左足首に大怪我を負ってしまい途中休場し、1ヶ月以上の入院を余儀なくされた。その後1998年1月場所と3月場所を全休して5月場所に前頭11枚目で復帰してからは、7月場所でまたもダブル金星で2横綱1大関に勝ち10勝し殊勲賞、その後も順調に番付を上げて同年9月場所で三役に返り咲き、勝ち越しを続けた。 1999年は、3月場所に小結で9勝6敗、5月場所に関脇で11勝4敗を挙げたが相撲内容から三賞候補からは外された。それでも「準ご当地」とも言える名古屋での7月場所は大関獲りの場所となった。この場所は初日から快進撃を見せ、7日目に曙を掬い投げでひっくり返し、9日目には貴乃花を豪快なハズ押しで見事に押し倒しで勝利した。9日目の支度部屋で、貴乃花は「出島の出足は横綱級だよ」と褒めたたえるコメントを残している(貴乃花はこの場所9勝6敗で終えるなど不調であった)。しかし自身は4日目の琴錦と11日目の魁皇にそれぞれ敗れ、出島に負けただけの曙に星の差1つで追走する形となった。金沢から大応援団が駆けつけた千秋楽は、関脇栃東を寄り切りに破って幕内昇進後自己最高となる13勝2敗の成績を挙げて、結びの曙の結果を待った。その結びの一番は、兄弟子の横綱武蔵丸が掬い投げで曙を下し、曙との優勝決定戦にもつれ込むこととなった。その大一番は、出島が立合いに左からいなす注文相撲を見せて曙を破り、念願の幕内最高優勝を果たした。優勝パレードの旗手は弟弟子の雅山が務めた。さらにこの場所は、1992年1月場所の貴花田(のちの横綱貴乃花)以来となる7年ぶりに三賞トリプル受賞を果たした。場所後にはついに大関の座を射止めたが、学生相撲出身力士の大関昇進は、1983年3月場所後の朝潮以来、16年ぶり4人目のことであった。昇進伝達の使者を迎える口上では「力の武士(もののふ)を目指し、精進、努力する」と語った。 新大関で迎えた1999年9月場所は10勝5敗とまずまずの成績だった。それ以降10勝前後の安定した成績を挙げるも、大関での最高成績は2000年3月場所の11勝で、千秋楽まで優勝争いに加わる事は一度も無かった。2001年1月場所は7勝8敗と大関で初の皆勤負け越し。この場所は連日土俵際で叩き込まれて負けていた。初の角番で迎えた3月場所は千秋楽に朝青龍を下して8勝7敗と勝ち越し、辛うじて角番を脱出した。だが5月場所では10日目に玉春日に敗れ2勝8敗と再び負け越しが決まり、この場所は5勝10敗に終わった。2回目の角番で迎えた7月場所では、初日から3連勝したものその後2連敗、蜂窩織炎による発熱で緊急入院したため、6日目から途中休場。同場所の再出場は叶わず、2場所連続負け越しにより大関から関脇へ陥落が決まってしまう。この蜂窩織炎は医師が「普通の人なら死んでいる」というほどの重度のもので、1ヶ月あまりの加療を余儀なくされた。入院中は最大42度の高熱に苦しみ、退院後もしばらくは38度台の高熱に苦しんだ。この大病については後に本人が、大関に在位することから来る「負けられない」というプレッシャーによって精神的にやられ免疫が弱っていたのだろう、と述懐している。
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