初土俵〜十両時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:10 UTC 版)
1975年(昭和50年)3月場所に本名で初土俵。同期生にはのちの大関若嶋津、関脇太寿山、師匠の長男である十両鶴嶺山らがいた。中でも鶴嶺山とは同部屋・同期・同学年の関係である。序二段時代の1976年(昭和51年)5月場所後に故郷の霧島山にちなんで霧島へ改名した。三段目から始めたウェイトトレーニングと高蛋白食で次第に上位でも通じる筋肉質の体格を作り上げ、左四つで両前廻しを引き附けるか、出し投げで崩して素早く寄る取り口で、出し投げは四つは左四つ、右四つのどちらでもよく、上手でも下手でもよく決まった。また、足腰が強くうっちゃりは鮮やかであった。そして得意の左四つからの吊りは豪快だった。攻めが遅い力士には特に強かったが、軽量なので速攻の力士や突き押しの力士に苦戦したこともあり、出世は大きく遅れた。 1982年(昭和57年)5月場所で新十両を果たすも1場所で幕下へ陥落。8場所後の1983年(昭和58年)11月場所で再十両を果たすと十両を4場所で通過して1984年(昭和59年)7月場所に新入幕を果たした。
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