初土俵まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:45 UTC 版)
5人兄弟の末っ子として生まれる。臼杵市立福良西小学校、臼杵市立西中学校では主に野球をやっていた(主に右翼手だったという)。相撲は中学生の頃は助っ人として大会に出場する程度であったが、当時実業団で活躍していた兄・義美を追って、大分県立大分水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)に入学してから本格的に相撲を始めた。 同高相撲部では1年生のときから県内有力校の3年生を次々に負かして評判となり、2年生になる頃には九州では負けなしで「大分に板井あり」と評判になった。高校生の頃が「人生で一番稽古した時期」と振り返っている。一方、助っ人として参加したラグビーの試合で膝を故障し、この膝の故障には大相撲入り後にも最後まで苦しめられることになる。 卒業を前に宮城野親方(元横綱・吉葉山)からの熱心なスカウトを受けたが、「プロの激しい稽古にはとてもついていけない」として断り、また多くの大学相撲部からの勧誘を受け、自身は駒澤大学への進学に前向きであったが実現せず、高校卒業後は、黒崎窯業に就職してサラリーマン生活を4年間送った。同社の相撲部では1976年、1977年の国体青年の部で優勝するなど活躍した。在職中の1975年には朝日山部屋入門が持ち上がったが、朝日山部屋のお家騒動に巻き込まれ立ち消えとなった。また退社して東京農業大学に編入学する話もあったが会社から強い慰留を受けたため実現しなかった。 実業団時代には闘鶏に凝っていて、競技用の鶏まで飼っていたという。
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