初土俵~スピード出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 23:55 UTC 版)
1935年1月場所で初土俵を踏む。四股名は、同郷で同部屋の國光鉄太郎を逆にしたのが元であるという。最初はなかなか番付が上がらず苦労していたが、幡瀬川邦七郎からエビオス錠の服用を勧められてから強くなり、以降は伊勢ヶ濵との二人三脚の指導で順調に出世した。 当時の史上最年少記録を全て更新したまま、1939年5月場所で新入幕を果たすと、その場所を11勝4敗の好成績で注目される。場所後虫垂炎を悪化させたことで手術を受ける必要に追われ、一時は生命の危機に瀕するも母が上京して看病したおかげで1週間の昏睡状態から意識を取り戻し、4ヶ月の入院を経て見事回復する。退院後の巡業では塞がりきらない傷口にガーゼを当てながら土俵に立った。翌場所は男女ノ川登三から金星を奪って12勝3敗の好成績を挙げると、僅か所要2場所で小結を飛び越して関脇に昇進した。照國の快進撃は留まることを知らず、その後3場所を11勝4敗・12勝3敗・13勝2敗として大関に昇進。22歳0か月での大関昇進は当時としては史上最年少。特に1941年1月場所は母が脳溢血で逝去した心労で風邪に罹り40度の熱を出した中での活躍であった。新大関でも12勝3敗の好成績を挙げた。 大関2場所目となった1942年5月場所、番付を見た照國はそれまで双葉山定次と同じ片屋にいたが、この場所は反対側に回されていたため、本人曰く「こっち(反対側)に回ったら双葉山に勝たないと横綱になれない。でも自分には到底勝てそうにない」と弱音を吐いていたが、14日目にその双葉山を下手投げで倒して12勝2敗とするが、当時は「番付上位優勝制度」が存在した時代だったため、千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國には優勝の可能性が無かった。結局、この場所の優勝は正大関である安藝ノ海節男(1敗)と双葉山(2敗)の対戦で決まることになり、双葉山が勝利して両者とも13勝2敗、番付上位優勝制度によって双葉山が優勝した。照國は前田山英五郎を倒して13勝2敗で、安藝ノ海と優勝同点とした。
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