怪童から「お荷物」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:31 UTC 版)
2000年(平成12年)1月場所は新小結かつ優勝次点となる12勝3敗の好成績を残すと、同年3月場所および5月場所は関脇で11勝4敗、この時点で大関昇進の基準とされる「三役の地位で直近3場所の合計が33勝」を満たしたため、5月場所終了に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード出世であるが、ここまでは相撲そのものに強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、当時の武蔵川部屋には横綱・武蔵丸光洋、大関・武双山正士、出島武春がおり、「この3力士と対戦せずに3場所34勝(での昇進)は物足りない」という意見も存在した。通常ならば大関昇進を諮る理事会において「満場一致での推挙」となるのが普通だが、10名の理事のうち3名が反対を表明する異例の事態となるなど、その行く末は当初から不安視されていた。 その不安は的中してしまい、2000年(平成12年)7月場所では初日の栃東大裕戦で右肩を負傷した影響が最後まで響き6勝9敗と負け越し、同年9月場所はいきなりの角番となってしまう。この場所は勝ち越して角番を脱出するも8勝7敗の成績で、本来の大関の成績とはかけ離れたものとなった。その後も負け越しては角番脱出を繰り返し、3度目の角番として迎えた2001年(平成13年)9月場所では序盤戦から全く波に乗れず、9日目の海鵬涼至戦で左足首関節および左足根骨脱臼の重傷を負って途中休場、同部屋の出島と共に大関陥落となった。大関在位は僅か8場所となり、短命大関としての順位は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降、大受久晃(5場所)・増位山太志郎 、栃ノ心、朝乃山(7場所)に次いでワースト5位の不名誉記録となった。また、大受、栃ノ心と同じく大関在位期間中の二桁勝利が一度もなく、東正大関に番付が載ることもなかった。大関としての成績も57勝58敗5休と負け越すなど大関らしからぬ成績を残すことになった。
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