初土俵後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 08:45 UTC 版)
1978年、サラリーマン生活に嫌気のさした板井は、大鳴戸親方(元関脇・高鐵山)の勧誘を受けたのを機に退社し、大鳴戸部屋に入門した。入門初日の稽古では当時三段目だった維新力を圧倒、その後出稽古にきた朝日山部屋の幕下力士をも圧倒し、当時幕内だった蔵玉錦と互角に取る等、力の違いを見せつけた。 1978年9月場所で初土俵を踏んだが、実業団時代の個人成績が足りないとの理由付けで幕下付出の申請が認められず、前相撲から取った。序ノ口から三段目まで3場所連続優勝し、26連勝(当時本割形式で行われていた前相撲を含むと29連勝)という当時のデビューからの最多連勝記録を打ち立てた(2012年1月場所で常幸龍貴之が更新。ちなみに連勝は、元小結・大錦が止めた)。翌年9月、序ノ口から僅か5場所で十両にスピード昇進(戦後では土佐豊、常幸龍と並ぶ1位タイ)。十両昇進を機に、四股名を「板井」から師匠の現役名と同じ「高鐵山(こうてつやま)」に改めた。 その後も順調に番付を上げ、1980年9月場所、初土俵から丸2年で新入幕を果たした。しかし新入幕の場所では、足の関節を傷めた影響で全く振るわず途中休場し、すぐに十両へと陥落。翌年5月場所では再入幕したが、この時も左膝の怪我により途中休場し、1場所で十両に下がった。それから間もなく、四股名を元の「板井」に戻している。その後も怪我に苦しみ、一時は東幕下45枚目まで番付を落としていた。 1983年3月場所にて4度目の入幕を果たしてからは鋭い踏み込みからの強烈な突っ張りを武器に長く幕内の座を守り、同門の横綱双羽黒の横綱土俵入り時には露払いを務めた。幕内下位では確実に勝ち越すものの上位では横綱・大関になかなか勝てず、いわゆる「エレベーター力士」として過ごしてきたが、1989年3月場所では東前頭7枚目で11勝4敗と好成績を挙げて殊勲・技能両賞を受賞。ちょうど場所中に33歳の誕生日を迎えた板井は、潮錦(1959年5月場所)以来となる33歳以上の高齢での三賞初受賞を果たした。翌場所、自己最高位となる小結に昇進したが、この場所では3勝12敗と大きく負け越し、三役経験はこの1場所のみで終わっている。1991年5月場所では、2日目に「昭和の大横綱」と言われた千代の富士に敗れ、結果としてこれが千代の富士の現役最後の白星になった(千代の富士は翌3日目に貴闘力に敗れた後、引退を表明したため)。 膝の故障のため巡業中には全くと言ってよいほど稽古をしなかった(ある巡業でぶつかり稽古をしていたところ「倒れ方を知っているのか」と噂が立った、巡業の稽古土俵に上がっただけでやくみつるの漫画のネタにされた)が、立合いのタイミングの取り方は天才的と評した親方もいた。
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