「近代最強力士」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 00:13 UTC 版)
1911年2月場所に序ノ口で初土俵を踏むと負け知らずのまま番付を上げ、1913年5月場所の幕下まで21連勝を記録した。入幕までに喫した黒星は僅か3のスピード出世だったにも関わらず、栃木山の軽量さから出羽ノ海からもほとんど顧みられず、幕下にあがったころ稽古場で「あの小さいの(栃木山)、えらく強いが、あんなのうちの部屋にいたか?」と言われたという逸話がある。 新小結に昇進した1916年5月場所8日目、当時56連勝中だった太刀山峯右エ門をもろ差しから一気に寄り切る殊勲の星を挙げ、号外が出るなど東京中が大騒ぎとなった。栃木山は勝利して花道を引き揚げる途中に背中へ百円紙幣が2枚貼られ、一晩の祝儀が1万2千円(当時)に達したが、場所後に仲間を引き連れて豪遊したために僅か3日で使い果たしたという。 翌1917年1月場所で新関脇となると6勝3敗1休と勝ち越し、大関・大錦卯一郎は全勝優勝で場所後の横綱昇進を決めた。こうなると同じ片屋に大関が不在になってしまうため、栃木山は同時に大関昇進を果たす。これは2019年現在まで、同部屋の力士が横綱・大関に同時昇進を果たした最後の例になっている。 1917年5月場所で大関、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。大関昇進後はほぼ全ての場所で優勝争いに加わり、風邪で途中休場した1場所を除いて9場所で優勝、6場所で半星差の優勝次点、残る1場所は優勝力士との間に半星差の優勝次点力士を挟んで1勝差の3位相当だった。1920年5月場所は8勝1分1預ながら、優勝者は9勝1敗の大錦、翌年1月場所も無敗だったが預り1つの差で大錦が優勝している。幕内の勝率は.878だが、横綱在位中の勝率は.935である。栃木山以降で横綱での最終勝率が9割を超えた者は出ておらず、この安定感をもって近代最強力士に推す意見も多い。 横綱土俵入りは上げた四股の足を戻す際に両足に化粧廻しが挟まることが目立っていたようであり、腹が出ていないことでこうなりがちであったという分析も存在する。
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