「近思録党」の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 05:06 UTC 版)
同年7月に、遂に斉宣が参勤交代で江戸に向かうことが決定すると、「近思録党」に属していたと見られた藩士に順次遠島・蟄居などの処分が下された。処分者の中にはその報を聞いただけで自害した者も多かった。また、実際には近思録派ではなかったが、親戚が「近思録党」に属していたと見られただけで処分された者もいた。処分者は切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名にのぼった。 その後、廃止されていた鷹場などの施設の復活が決定し、同年9月29日には市田盛常の長男・義宜が勘定奉行という重職に任命される。更に重豪は樺山・秩父らの関係した政務書類の全焼却を命じ、「近思録党」の改革は存在すら抹殺されることとなったのである。 秩父季保は7月6日未刻に、樺山久言は9月26日未明に切腹した。翌文化6年、斉宣も近思録党を取り立てた責任を問われ、6月17日隠居に追い込まれ、家督を長男島津斉興に譲らされた。
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